にわか考古学ファンの独り言(縄文時代)

 竪穴住居について①

 縄文時代の遺跡から出土する住まいの遺構でもっとも一般的なものは竪穴住居です。地面を数10㎝ほど掘り下げて床面と壁を作り出した半地下式の家屋です。そして、竪穴住居内の床面には普通1か所の炉が設けられています。北海道大船C遺跡で見つかった中期の竪穴住居は掘り込み面からの深さが2.4mもあります。本州以南の縄文集落ではこれほどの深い例は見られていません。

 竪穴住居は住まいの形式としては寒冷地に適した北方系の家屋です。北太平洋沿岸地域には竪穴住居を住まいとする諸民族が分布しており、巨視的にみれば縄文時代の竪穴住居もその南限にあたります。佐原誠は竪穴住居とイヌを北方系の文化要素と考えて、縄文文化の成立に北方系文化が関与した可能性があると論じています(佐原1987)。その見方を裏付けるように、縄文時代の日本列島でも竪穴住居が一般的にみられるのは中部・関東・東北地方の東日本一帯と北海道であり、比較的寒冷な地域に広がっています。それに対して近畿地方以西の西日本一帯では、竪穴住居の発掘事例が極端に少なくなっています。東日本と西日本では縄文時代の遺跡分布密度が異なり人口の差を考慮しなければなりませんが、住まいの形式が異なっていた可能性があります。

 竪穴住居が通年居住用の住まいであったかどうかについては、確証が得られていません。北方系の民族例では、屋根に土を被せた土屋根の竪穴住居を冬期の防寒用に使用している場合が多いことから、縄文時代の竪穴住居を冬期防寒用と類推する論者もいます。実際に屋根に土を被せた痕跡が確認された発掘事例もあります。新潟県和泉A遺跡では遺跡全体を覆いつくす妙高火山の泥流堆積物によって、中期の竪穴住居跡がパックされ現状をよく留めていましたが、竪穴内に流れ込んだ土の体積状態から屋根の半分ほどを土で覆った構造が復元されています。岩手県御所野遺跡では、中期後半の竪穴住居内に多量の焼土が堆積している状況から、屋根に被せた土が火災により崩落したものと推定されています。

 土屋根住居の中には冬期防寒用の家屋が含まれていた可能性も考えられます。しかし、東日本一帯では弥生・古墳時代から奈良・平安時代まで竪穴住居が伝統的に継承されており、主要な住まいの形式と考えるのが自然です。奈良県佐味田宝塚古墳出土の「家屋文鏡」の背面には、豪族の居館を構成していたとみられる4種類の家屋が写実的に描かれていますが、そのうちの一つは寄棟式の屋根を地面に伏せた形の竪穴住居です。北海道栄浜I遺跡では、それとそっくりの竪穴住居をかたどったとみられる軽石製品が出土しています。このような茅葺屋根の竪穴住居も多かったと考えるべきであると思われます。 

 竪穴住居の床や室内の構造もまだよくわかっていません。千葉県大膳野南貝塚(中期)では貝殻粉を用いた漆喰塗りの床が見つかっていて、千葉県内に類例が散見されます。群馬県茅野遺跡の晩期の住居跡では、網代上の敷物が残っていました。

 縄文時代の竪穴住居には、同じ竪穴を繰り返し利用しながら上屋を建て替えた痕跡が頻繁にみられます。その中には旧い竪穴をほぼそのまま利用し主柱をほぼ同じ場所で立て直しているケースもあります。主柱の位置や本数を変えずに上屋を作り変えるのは、屋根の重みを支える梁をはじめ、長年使い続けた主な建材を再利用したことを示す特徴です。多数の柱穴がほぼ同じ場所で重複している現象は、弥生・古墳時代の竪穴住居にはそれほど見出せません。ここに縄文時代の建築流儀の一端を読み取ることができます。

(参考文献)

谷口康浩「縄文人の技術力」「入門縄文時代の考古学』同成社、2019年