にわか考古学ファンの独り言(縄文時代)

 縄文土器について①

 縄文土器の「縄文」は、明治時代に来日したアメリカの動物学者、エドワード・S

・モースが、東京・品川にある大森貝塚の土器の縄目文様の説明に使用した「cord mark」が語源です。それが和訳され、慣用的に使われるうちに定着し、「縄紋」から「縄文」となりました。学術用語ですが、その意味に曖昧さを含んでいます。

 縄文土器すべてに「縄文(縄目文様)」がつけられているいうわけではありません。「縄文時代の土器」という広義の意味が与えられているので、縄文がない土器も同じく縄文土器と呼ばれています。

 日本列島全体の縄文土器をたどってみると、まず最も古いとされる土器が登場するのは、最終氷期が終わったとされる、いまから1万2000年頃よりもさらに数千年さかのぼるといわれています。最初は、文様のほとんどない土器のかけらが、九州・関東・東北などで、終末期の旧石器と一緒に発見されます。

 その後、九州から青森までの範囲に、隆起線文とよばれる特殊な帯のような文様をもった土器群が日本列島に定着します(縄文草創期中頃)。そして各地に根づいた土器群は大雑把な文化圏を形成するようになります(縄文早期前半)。

 それらは地域色を示すように、九州に貝塚文系土器群、西日本と東北に押型文系土器群、関東甲信越に縄文・撚糸文系土器群が成立し、しだいに関東甲信越を境にして西日本に押型文系土器群、東日本に貝殻文沈千線文系土器群という、日本列島を東西に分ける分布圏を形づくるようになります。 

 次の段階に変革期がおとずれます(縄文早期後半)。それは、貝殻の縁を土器面に引きずるようにして施された条痕文様を特徴とする条痕文様土器群が、九州を除くほぼ日本列島全域に分布します。特記されるのは、この土器群は、胎土に繊維を混ぜ込んでいる点です。しかもその技法は東日本で発展し、西日本ではあまり発展しないというように、東西日本で違いをみせています。

 その後、縄文土器群は日本列島各地で地域色を強めながら、形や文様の多様化が起こり始めます(縄文前期)。

 しだいに地域色が各地ではっきりするようになり、とりわけ日本列島の東西にはさまれた関東甲信越を中心とした地域で、隆起性に富んだ装飾文様を特徴とする土器群が誕生し、周辺地域と複雑にかかわりながら発展するという現象を引き起こします(縄文中期)。

 その後、特定の土器群が広い範囲に分布する傾向が強くなり、東日本の土器群は技巧をこらした文様を発達させ、西日本の土器群は無文化の傾向を強めるという東西日本のちがいが目立つようになります(縄文後期)。

 その後、東西土器群のちがいは、西日本の磨研土器、東日本の亀ヶ岡型土器というきわだったちがいを見せる土器群に代表されるようになり、それはそのまま弥生土器を受け入れる基盤となります。

 大づかみした縄文土器の変遷は以上のようになりますが、私が特に興味をもったのは、火焔型土器に代表される縄文時代の中期の土器です。ちなみに火焔型土器は縄文時代を代表する土器ですが、新潟のある地域だけで作られ続けた土器であり、今のところ他の地域では見つかっていません。

 なぜ、縄文中期の東北地方の土器に関心をもったかというと、この縄文土器の文様と造形は世界各地の先史土器と比較してみても際立っているからです。器の機能を超越した過剰ともいえる造形が特徴的にみられるからです。このことについては次回詳しく述べたいと思います。

(参考文献)

井口直司「縄文土器の二極化」『縄文、土器・土偶角川ソフィア文庫 平成30年

井口直司「縄文時代の特色は地域性にあり」『縄文土器ガイドブック』新泉社2012年