にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

弥生早期前半(前10世紀後半~前9世紀中ごろ)水田稲作の始まり①

 炭素14年代測定法の衝撃により、弥生時代の開始年齢が前5~前4世紀から前10世紀に約500年さかのぼったことにより、弥生時代の歴史は前10世紀から始めたいと思います。日本列島で最初に水田稲作が始まったのは、九州北部、玄海灘沿岸地域の福岡・早良平野です。初めて水田稲作を行った人々の暮らしをみていこうと思います。

 登場するのは朝鮮半島南西部から海を渡ってきた水田稲作民と縄文後・晩期からこの地で暮らしていた人々(在来民)です。水田稲作民とはその名のとおり水田稲作農耕を行う人々ですが、ただ米を作るだけではなく、ここでは水田稲作中心の暮らしを送っていた人々のことを指します。作物がコメだったというだけでなく、稲作を効率的におこなうために適した労働組織や物資交換の仕組みを備えた社会をもち、コメの豊穣を祈る祭りを行うなど、まさに生活の中心にコメ作りがあった人々であります。しかしコメという特定の作物に依存する生活を送ることは危険と隣り合わせであり、不作の時には食糧不足に陥りやすい欠点があります。

 一方、在来民は、特定の食料に頼らずに採取・狩猟・漁労などあらゆる食料獲得手段を駆使して生活する点に特徴をもちます。ある木の実が不作でも他の木の実が多く採れれば暮らしていけるというように、いろいろな食料を幅広く採取することによって、危険を分散しています。だから周辺の食料資源に対して集団の規模が適正であれば食料不足の陥ることはまずありません。

 在来民の中にはアワやキビなどコメ以外の穀物を栽培していた人々、すなわち採取・狩猟・漁労に農耕を加えた人々(園耕民)がいました。園耕民は農耕を行っているものの、それはあくまでも生業の一部であって、農耕中心の暮らしを送っているわけではない人々を指します。縄文後・晩期の西日本の在来民のほとんどは園耕民であったと予想されています。

 園耕民は縄文後・晩期以来、平野の中・上流域を中心に暮らしていました。森や川、山など、いろいろな生態系に交わる場所こそが、彼らが暮らしていくのに最適な場所だったからです。園耕民にとって魅力がなかったのか、下流域には暮らしのあとは認められていません。それどころか、福岡平野下流域に水田が拓かれる前10世紀後半よりも前に在来民が暮らしていた痕跡を探そうにも、9000年も前の縄文早期までさかのぼらないと見つけることができません。つまり水田稲作民が下流域で暮らし始めるまでの約6000年間は、下流域は在来民にとっては魅力のない土地だったのです。

 そこでこの下流域に、朝鮮半島水田稲作をしていた人々が新天地を求めて移り住みました。一例として、福岡県早良平野にある有田七田前遺跡の人びとを見てみましょう。室見川の上・中流域に縄文的な生活で暮らす在来民がいて、その下流域に大陸から渡ってきた人々が、水田稲作をしながら暮らしています。水田稲作をする人々と伝統的な暮らしをする人々は、住み分けをしながらも、お互いの存在が気になっていたと思われます。

 両者は少しずつ距離を縮め、ゆっくりと意思疎通をはかります。そうして新しい文化を受け入れていったように思います。もしかしたら、大陸の人びとはコメを焚いて縄文人に食べさせたかもしれません。渡されたコメを縄文人はおそるおそる口に入れ、噛みしめるほどに広がる旨味に衝撃を受けたかもしれません。あくまでも想像ですが、その味を知った縄文人は、今までに味わったことのないコメの美味しさの虜になったのでしょう。もしかすると、私たちが思う以上に、縄文人たちは積極的に水田稲作という新しい文化を取り入れたのかもしれません。

 縄文人は食料を獲得する目的で大幅な自然改変を行うことはありません。木の実のなる大切な森を根こそぎ伐採して、そこに水路を引いて水田を作るという発想は、縄文からは出てきません。それはまさに朝鮮半島青銅器文化の発想です。水田稲作の開始とは、単なる食料獲得手段の変更にとどまりません。社会面や精神的な面までも巻き込んだ生活全体の大変革でした。これは、縄文人が見よう見まねでできるようなことではありませんので、朝鮮半島南部から来た人々が何らかの形で関わっていたことは間違いありません。

 コメ作りが天候に大きく左右されることは、現在も3000年前もおなじであります。弥生人の苦労は遺跡にもしっかりと残されています。板付遺跡では、約200年の間に大きな洪水を複数回受けていますが、そのたびに水田が砂に覆われ、コメ作りが中断されたことがわかっています。野多目遺跡では、地下水位の上昇によって、排水が出来なくなり生産量が落ちた水田を最終的には放棄したことが確認されています。3000年前の稲作民が厳しい環境のもとでコメを作っていたことがしのばれます。だが彼らはコメ作りをやめることはありませんでした。安定してコメを作ることができる別の土地にまた新たな水田を拓き、コメを作り続ける。それが弥生人なのです。

(参考文献)

藤尾慎一郎「弥生早期前半」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年

譽田亜希子「社会の移り変わり」『知られざる弥生ライフ』誠文堂新光社2019年