にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

  弥生早期前半~前期後半②(前9世紀後半~前5世紀)

  水田稲作の拡散

 これまでの水田稲作は、九州北部から西日本各地に瞬く間に広がったと考えられていました。こうした考え方は意外と古く、戦前から存在していましたが、その理由は二つあります。一つは九州北部で見つかる弥生前期の土器も、近畿や東海で見つかる弥生前期の土器もきわめてよく似ていることから、広がるのにそれほど時間はかからなかったであろうと考えられたことです。二つ目は、常に食料不足の悩まされていた縄文人は、神の手に導かれるように水田稲作に飛びついたと考えられたことです。

 実際、当時の年代観では九州北部から近畿までは、土器一型式の存続幅に相当する約30~50年で水田稲作が広がったと考えられたので、「一気に」とか、「瞬く間に」という形容詞付きで認識されていました。

 また東日本の縄文人に比べると食うや食わずの生活を送っていた西日本の縄文人は、水田稲作を始めることによって豊かな生活を送ることができるようになったのであるという当時の進化論的な考えが、急速な農業の受け入れと拡散という考えに結びついたのだろうと思われます。逆に西日本に比べると豊かな採取狩猟生活を送っていた東日本の縄文人は、農業を受け入れる必要がなかったという考えと結びつき、東日本に水田稲作が遅れて伝わる理由と考えられてきました。

 しかし炭素14年代にもとづく新しい年代観のもとでは、こうした考え方は成り立たなくなります。九州北部から近畿に広がるまで約350年、関東南部にいたっては約650年かかったことになります。水田稲作は250年余の間、基本的に玄界灘沿岸地域にとどまり、この地域から外へはなかなか広がらなかったのです。

 前10世紀後半に玄界灘沿岸地域で始まった水田稲作は、前8世紀の終りごろ、ついに玄界灘沿岸地域を出て九州東部・中部でも本格的に始まります。また香川以西の瀬戸内沿岸でも木製家具や朝鮮半島系の貯蔵用の壷など、水田稲作を行う上での要素が断片的に見られるようになります。

 山陰側は前7世紀前葉に鳥取平野まで到達し、四国側は前6世紀に徳島市まで到達します。近畿では前7世紀に神戸市付近、前6世紀には奈良盆地で始まり、伊勢湾沿岸地域にも前6世紀中ごろまでには到達します。

 伊勢湾沿岸地域から先は、近畿の日本海側を経由して一気に東北北部まで北上。前4世紀前葉には青森県弘前市に到達します。前4世紀代には仙台平野、福島県いわき地域でも水田稲作が始まります。一方、伊勢湾沿岸から太平洋側へのルートは、前3世紀になってから中部高地、関東南部に到達します。

(参考文献)

藤尾慎一郎「水田稲作の拡散」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年