にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生前期末~中期後半①(前4世紀~前3世紀)

 前4世紀の本州・四国・九州で起こった大きな出来事は、本州最北端の青森でも水田稲作が始まったこと、鉄や青銅という金属器が登場すること、鏡や武器などの青銅製品を副葬品に持つ特別な人びとが九州北部に現れることです。また北海道では続縄文文化が、奄美・沖縄では貝塚文化が成立し、水田稲作を採用せず、地域の特産品との交易で必要なものを手に入れる人びとが現れたことです。すなわち前4世紀とは、縄文時代以来、同じ方向を向いて歩んできた日本列島の人びとが、進路を異にして歩み始めた日本歴史上の分岐点として位置づけることができます。

 水田稲作の拡大ー東北地方へ(砂沢遺跡)

 東北地方では、古代になるまで水田稲作が始まらないと長い間考えられていましたが、1981年に青森県田舎館村垂柳遺跡で前3世紀の水田跡が見つかったことで、紀元前に水田稲作がおこなわれていたことが明らかになってきました。そして1987年の弘前市砂沢遺跡の発見は、前4世紀(前期末)に東北で水田稲作が始まっていたことを示すだけに、人びとに大きな衝撃をもって受け入れられました。

 砂沢遺跡は、世界でもっとも北の地で見つかった先史時代の水田遺跡です。1987年に見つかった前4世紀前葉の水田は、津軽富士として有名な岩木山の北麓から北東方向に広がる扇状に拓かれていました。現在は近世に作られた溜池に水没しています。

 この砂沢遺跡では、水田稲作に必要な道具である木製農具や木製品を作る大陸系磨製石器は一点も出土していません。使っている工具は縄文後・晩期以来の剥片石器は磨製石器です。土器も縄文後・晩期以来の深鉢や鉢などに、種籾貯蔵用や煮炊きを行う甕などのわずかな弥生土器を組み合わせたものです。

 砂沢の人びとは高度な土木技術で作られた水田や種籾貯蔵用の壷など、もともと縄文文化にはなかった要素は導入しましたが、農耕具や加工具、まつりの道具に至るまで、代用のきくものはすべて縄文以来の道具を使っていました。水田稲作を行う上で、自分たちの伝統にない必要最低限のものだけを受け入れ、それ以外はもともとあるもので間に合わせている点に、青森の人びとの主体性の強さを見ることができます(宇野1996)。

 こうした特徴を見せる理由の一つに、水田が作られた場所があります。これまでの水田は、それまで在来民が生活の本拠としていなかった平野の中央部に拓かれていましたが、砂沢遺跡の水田は、縄文後・晩期以来の在来民が脈々とむらを造り続けてきたところに拓かれています。つまり在来民の本拠地で水田稲作を始めているのです。

 ただ東北北部の水田稲作の特徴として、代用できる道具はなるべく使い慣れた道具を用い、どうしてもできない場合に限って新しい道具(壷など)を援用するという姿勢が、きわめて強い点をあげることができます。

(参考文献)

藤尾慎一郎「水田稲作の拡大』講談社現代新書2015年