にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生前期末~中期前半(前4世紀~前3世紀)③

 貝塚後期文化

 この文化は前10世紀後半~前5世紀に始まった文化で、奄美沖縄諸島に広がる珊瑚礁という生態系に特化した文化です。珊瑚礁から得られる特殊な貝を元手に、朝鮮半島・九州・先島諸島などとの直接・間接の交流で必要な物資を手に入れていました。したがって海産物を交換財とした文化が、弥生文化の南と北に広がっていたことになります。

 人びとは海浜砂丘上かその裏側に一辺が3.5~4.0m程度の竪穴住居を建てて暮らしていました。貝塚前期文化の人びとが森の中で植物質食料中心の暮らしをしていたことに比べると、海への依存度が高まっています。主な生産の場は珊瑚礁の内側に広がる波静かな内海で、狙うのは生息する魚貝類です。「イノー」と呼ばれる浅海の堡礁には、岩礁をはいずるウニや貝殻、遊泳する色とりどりのブダイ科、スズメダイ科、ベラ科の熱帯魚をはじめ、産卵にやってくるウミガメや、住み着いたジュゴンのような哺乳類も生息しています。

 遺跡からは食べられたと思われる貝がたくさん見つかっています。40cmを超える大きなシャコ貝から1㎝内外のアマ貝まであり、その種類は130にも達するといいます。実にさまざまな貝を利用していたことがわかります。続縄文文化と異なる点を探すと、副葬の習慣がないことです。墓は砂丘上にサンゴ石を並べて作った石棺状のものがあります。読谷村木綿原遺跡の石棺墓に葬られていた男性は、額の上にシャコ貝を載せた状態で発見されています。

 貝塚後期文化の特徴の中でなんといっても忘れてはならないのが、南海産の大型巻貝をめぐる弥生人との交流が人々の暮らしを支えていたことです。九州との交流は縄文時代までさかのぼります。

 弥生時代になっても縄文後・晩期以来存在した、佐賀県腰岳産黒曜石の搬入ルートを使った交流がおこなわれたようで、前9世紀の佐賀県宇木汲田貝塚からは沖縄産の貝で作った貝製臼玉が出土しています。こうした西北九州の弥生人との間で始まった貝をめぐる交流はやがて福岡平野有明海沿岸地域の弥生人へと相手が変わってきます。

 前4世紀前半になると、貝輪用の大型巻貝とコメや鉄などの物資との交換を目的とした本格的な交流が始まります。貝塚後期文化の人びとは九州北部の弥生社会で高まった貝製品の需要に目をつけ、多くの貝を効率よく供給するための仕組みを整え、これを武器に必要な物資を手に入れるという戦略を生み出しました(新里2009)九州産の絹、コメ、アワ、キビ、鉄などの必需品や鏡、青銅の矢じり、古銭、ガラスなど大陸起源の文物も含まれています。しかしこれらの貴重品が墓に副葬されることがなかったことが続縄文文化と異なる点です。

 

(参考文献)

藤尾慎一郎「貝塚後期文化」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年