にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)①

 文明との接触ー鉄を求めた倭人

 前108年、前漢武帝朝鮮半島支配の出先機関を設置しますが、そのうち平壌あたりに置かれたのが楽浪郡です。従来の弥生研究では、弥生人が中国世界と接触するようになるのは楽浪郡の設置以降であるとして、文明との出会いを前2世紀以降と考えてきました。ところが朝鮮半島南部に弥生土器が出土するようになる前4~前3世紀ごろまで接触がさかのぼることは明らかになりました。

 前2世紀になると弥生土器がセットで見つかる遺跡が、朝鮮半島南部に出てくるようになります。その背景にはこの地域の鉄資源があります。慰山市達川遺跡は、初期鉄器時代の鉄鉱石採掘場が見つかった遺跡で、甕だけでなく壷や高杯など弥生土器がセットで出土しました。これは弥生土器を使う人々が、一定期間かの地に定着するようになっていたと考えられます。

 弥生人は鉄鉱石採掘地の達川にどのような目的があったのでしょう。日本列島の人びとが鉄鉱石を利用できるようになるのは、6世紀第3,4半期に岡山で製鉄が始まってからなので、鉄鉱石の入手が目的ではありません。達川では製錬から精錬、鉄器作りまでの一連の作業が行われていたことを考えると、弥生人が求めたのは鉄器を作る際に必要な鍛鉄系の鉄素材、もしくは鉄器そのものにあった可能性が高いです。

 弥生土器がセットで見つかる遺跡がもう一つあります。勒島遺跡です。ここでは弥生土器ばかりでなく楽浪系の漢式土器も出土しているので、勒島は国際色豊かな様相を示していたことがわかります。須玖Ⅱ式土器がセットで出土している点や、勒島でも弥生土器がつくられている点は、玄界灘沿岸地域の弥生人が短期・長期にわたって居住していたことを意味します。その目的は、鉄器や鉄素材を中心とした資源の入手であっただろうと思われます。

 勒島でも精錬や鍛治が行われていたことは出土した送風官、炉壁、小鉄塊、鍛造剥片、鉄滓からわかりますが、こうした鉄関連の資料が見つかる遺構に弥生土器がともなう確率は45%と非常に高いことからも、弥生人の目的が鉄にあったことがわかります。

 勒島遺跡は、前2~後1世紀中ごろを中心に鉄を中心とした文物交易で繁栄した場所といえるでしょう。いろいろな人びとが居住する国際色豊かな港町だったと思われます。

(参考文献)

藤尾慎一郎「文明との接触」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年