にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)②

 くにの成立ー原の辻遺跡一支国

 「くに」の大きさは江戸時代まであった筑前国河内国を構成する群の一つか半分、三分の一ほどで、たくさんのむらから成り立っていました。

 前3世紀になると遺跡全体を取り囲むように壕が掘られて、約16ヘクタールの居住域と、壕の外側に造られた約6ヘクタールの墓域の、あわせて22ヘクタールにも及ぶ「原の辻大集落」が成立します。こうして倭人の条に記されることになる一支国の中心部が成立し、後一世紀までの300年以上にわたって継続します。壱岐島への訪問者は海から川をさかのぼったところにある船着場から大集落に上陸します。

 環濠内は計画に基づいて大がかりな土木工事によって、居住域、祭儀場、交易の場、また環濠の外には墓域、といった具合に機能的に配置されています。

 在来民が居住の場としなかった丘陵上に大集落を造った玄界灘沿岸地域、とくに糸島地域の人びととゆかりのある弥生人の目的は、大陸や朝鮮半島と交易する前線基地を造ることにありました。勒島遺跡(朝鮮半島)で須玖I式土器が出土し始める時期と、この大集落ができる時期も一致しています。

 つまり玄界灘沿岸地域の弥生人は、楽浪郡が設置されるより200年も前から朝鮮半島南部の資源を手に入れるために、海上交通路のルート上に位置する拠点として原の辻遺跡を造った可能性はが高いと思われます。

 出土した貨幣や大陸系の文物も、この遺跡が交易基地であったことを示唆しています。原の辻遺跡では前漢の貨幣である五銖銭が15枚出土していますが、墓には副葬されていません。中国世界で成立していた貨幣経済の外にあった西日本で見つかる銅銭は、列島産青銅器の銅素材であった可能性も否定できません。

 しかし原の辻遺跡のような人工的に作られた港を備えた遺跡では、楽浪郡朝鮮半島南部から渡ってきた人々の間で、局所的に通貨としてもちいられたのではないかという説もあります(宮崎2008)。貨幣以外にも機械仕掛けの強力な弓である「弩」専用の矢じりである三翼鏃、滑石が混入した楽浪郡の土器など大陸の文物が豊富に見つかっています。

 環濠の外に設けられた墓域には、祭儀を行っていたと推測されている有力者の墓があります。前4世紀前葉(前期末)にはすでに存在した有力者につながる人びとであろうと思われます。

 原の辻遺跡の有力者の墓は、玄界灘沿岸地域の有力者の墓とは異なる点が二つあります。玄界灘沿岸地域の有力者は大型(1メートル前後)の成人甕棺の葬られ、かつ前1~後1世紀にかけて前漢の大型鏡を大量副葬されていますが、原の辻の墓は箱式石棺墓と土壙墓がメインで、かつ前漢の大型鏡は1枚も見つかっていません。壱岐全体でも前漢の鏡は見つかっていません。 

 もしこの種の鏡をもつ有力者が一志国にいなかったとすれば、前1世紀後半段階において、一志と末盧(佐賀県唐津市)の有力者と、伊都や奴の有力者との間には階級的な違いがあることになり、一志の有力者は明らかに数ランク低かったことが予想されます。

(参考文献)

藤尾慎一郎「くにの成立」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年