にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)③

 くにの成立~三雲遺跡(伊都国)

 今回は、玄界灘沿岸地域の有力者の中でもっとも多くの大型の前漢境を副葬され、かつ段丘や区画溝などをもつ墓に葬られた伊都国の有力者の墓である、糸島市雲南小路遺跡を取り上げます。

 JR筑肥線波多江駅で降り、車で10分ぐらい南に走ると、緑豊かな田園地帯に今から2000年ほど前の王が静かに眠っていた墓があります。江戸時代に発見された土製の棺である甕棺や大量の副葬品はほとんど散逸してしまいましたが、1974年から始まった福岡県教育委員会や、糸島市教育委員会の調査で明らかになった墓の実体は驚くべきものでありました。

 1号甕棺に副葬されていた品々の中で注目すべきが、ガラスの壁、金銅製四様座飾金具、そして35枚を超える中国の大型の鏡です。いずれも交易で入手できるものではなく、前漢王朝から楽浪郡を介して直接下賜されたものです。これらの品々をもとに1号甕棺に葬られていた被葬者の人物像に迫ってみます。

 ガラス製の壁は推定直径約12,3㎝、穴の径約3,8㎝のCD形で、中国国内で出土するものより小型です。漢代には埋葬時、被葬者の頭部に立てかけたり胸部に置いたりして、遺骸を長く保つための装具としてもちいられました。

 金銅製四様座飾金具は、銅板を四葉型に切り抜き、中央部に別に作った半球状の銅器を組み合わせたもので、葉の両端部の長さが約8センチをはかる大型品です。本来は漆器や木棺に取り付けられる外装用の金具です。

 35面以上見つかった鏡の内訳をみると、前漢初期(前2世紀末)に作られたものから、前1世紀第24半期から第34半期にかけて前漢で作られた鏡からなり、前1世紀後半に下賜されています。九州北部で出土した前漢境の50%弱が1号甕棺から見つかっていることを考えると、ガラス壁や金銅製品もあわせて前漢の下賜品であったことは間違いないです。

 九州北部の有力者たちは、前漢境の数と青銅製武器、鉄製武器、装身具の組み合わせによって三つのランクに分かれています。頂点に立つのは、三雲南小路1号甕棺や須玖岡本D地点に葬られた人たちで、大量の大型前漢鏡に細形や中細形の青銅武器、ガラス壁やガラス製装身具を持っています。この二人で前漢境の75%以上を副葬されています。

次が福岡県立岩10号墓、東小田峯10号墓など、大型前漢鏡数枚と鉄製武器を持った人たちです。装身具を持っていないことから戦闘集団的な性格を持っています。最後は南小路2号墓など武器を持たず小型の前漢鏡中心で装身具を持つ人です。女性とみられています。

 この基準に従うと前漢鏡を一枚も持っていない原の辻遺跡の被葬者は、三雲南小路遺跡の被葬者よりは二ランク低い位置にあったことになります。

(参考文献)

藤尾慎一郎「くにの成立」『弥生時代の歴史』講談社現代新書205年