にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 

 

 




 弥生後期(1世紀~3世紀)古墳時代への道①

 奴国の中心ー比恵・那珂遺跡

 多くの人は弥生後期の遺跡といえば、登呂遺跡や吉野ケ里遺跡をイメージすると思いますが、当時の先進地である玄界灘沿岸地域、特に金属器やガラスの一大産地でもあり、さらに国内外の交流ネットワークの拠点で弥生後期における奴国の「王都」と呼ばれることもある比叡・那珂遺跡群の具体的なイメージが示されることはありませんでした。

 比恵・那珂郡に有力者の墓が現れるのは板付田畑遺跡よりも少し遅い前3世紀(中期前半)のことで、特定の墓を他の墓と区別するように溝や墳丘などで区画した区画墓が、比恵・那珂両地区に現れます。被葬者は、それまで丘陵の縁辺部で暮らしていた人びとを、丘陵中心部へ進出・拡大させた人物で、いわゆる「集住」化を実現した人物と考えられています。区画墓には、25×45mの規模をもつものや細形銅剣を副葬されたものがあります。

 前2世紀(中期後半)以降、板付遺跡の衰退とともに福岡平野の中心は比恵・那珂遺跡群に遷り、前2世紀、後1世紀、後3世紀と三回にわたる計画的なまち造りが行われ、3世紀終わりごろ(古墳時代前期前半)に衰退するまで、福岡平野における列島内外との交流の中心の一つであり続けました。まさに奴国の中枢にふさわしい遺跡といえます。

 最初の計画的配置は、前2世紀(弥生中期後半)になると、比恵・那珂の丘陵上に、運河と道路を基軸にして住居や倉庫などが計画的に造られるようになります。丘陵上には「比恵の大溝」と呼ばれている幅5m深さ2.5mの、断面が逆台形の大溝が、南の四六次から北の三五次にかけて全長900mにわたって掘削され、その平面はクランク状の矩形をなします。大溝の両側には竪穴住居がなくて掘立柱建物群や高床倉庫群が配置されています。

 比恵地区の居住域には住居面積を異にする三つのブロックが認められ、「階層的秩序」をもつ住居が造られたと考えられています。また那珂地区には中・小型の住居群からなるブロックが認められています。比恵中心部を上位とする比恵・那珂遺跡群全体の階層的秩序が形成されていたと考えられています(吉留1999)。

 したがって前2世紀から後1世紀にかけての比恵・那珂遺跡群は、丘陵上には計画的に設計された道路、運河、倉庫群、階層ごとに分かれた住居群、金属器工房が配置され、各所に造られていた水田でとれるコメが、人びとの暮らしを支えていました。また有力者の墓と考えられる区画墓が比恵と那珂に一か所ずつ存在することから、前3世紀には有力者層によって統括された、より高度な首長制社会と地縁的社会が成立していたと考えられています。

 第二の計画的配置は、1世紀後半(弥生後期)、丘陵上を中心に新たな道路と建物群によって再構成されます。前2世紀に掘られた「比恵の大溝」(運河)の埋没後、それに沿って新たな大溝(比恵の大溝)が掘られ、倉庫群と居住域を区画する新たな境界になります。那珂地区には大溝がいくつも掘られ、2世紀(後期後半)大規模な区画を形成、台地上をブロック状に区画し、深溝とあわせて碁盤の目のような「街区」を形成します。比恵地区の中心域には、前代の甕棺墓を壊して比恵の大溝と軸を合わせた方形の環溝が掘られ、内部には有力者の居館と考えられる超大型の建物が建てられています。古墳時代の首長居館の先駆けと考えられています(久住2008)。

 比恵地区と那珂地区には、1世紀から2世紀にかけて一体化して居住域が大規模化します。人びとの住まいは竪穴から平地建物へと転換します。井戸も前代同様、多数掘られています。また倉庫群の西側には、「市」的な空間も想定されています。こうした想定の根拠になっているのは後1世紀後、増加してくる外来系土器の存在です。吉備、讃岐、伊予など瀬戸内系土器を筆頭に列島各地の土器の搬入量が増加し、人の出入りが激しくなっていることがうかがい知れるからです。

 このように後1世紀に行われた二度目の計画的配置によって、古墳時代の豪族居館の先駆けといえる邸宅が成立するとともに、国内外の物資が行き来する流通の中枢、すなわち「市」が成立していました。

 第三期の計画的配置として、2世紀前半(弥生終末から3世紀後半(古墳前期前半)にも行われた大規模な計画的配置があります。これまでよりも総延長が大きく伸びた南北道路を軸にして、集落全体で計画的配置が行われました。長さ1.5㎞以上、幅が5~9mで側溝をもつ南北道路に沿って、住居や建物、周溝墓が配置されています。また直線を指向する南北道路には、交差点や分岐路も確認されています。

 比恵の北端には、幅25mの運河が接続しており、船着き場の存在が予測されているところから直接、船で上がってこられた可能性があります。

 前代に引き続き、倉庫群と「市」ではないかと考えられている空間が確認されています。その空間からは朝鮮半島から近畿に至る広い地域の土器が大量に見つかっています。

 しかし2世紀末までは糸島地域で見つかることが多かった朝鮮半島系の土器は、3世紀になると福岡平野で見つけることが圧倒的に多くなります。それまで糸島地域の海浜部の遺跡にあった朝鮮半島との交流の窓口が、3世紀になると博多湾海浜部の遺跡に遷った可能性が高いことを意味しています。朝鮮半島の中でも西南部の馬韓系の土器が目立つことから、「博多湾交易」とよぶ研究者もいます(久住2007)。

 3世紀を境に弥生週末~古墳前葉になると、対外交流の窓口は博多湾砂丘上に位置する遺跡へと遷っていくようです。

(参考文献)

藤尾慎一郎「な国の中心」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年