にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 東アジアとの外交について

 「楽浪海中倭人あり」。これは中国の史書漢書』地理志に書かれた日本の地理情報です。当時の日本は「倭」と呼ばれ、中国の前漢が今の北朝鮮辺りに置いた楽浪郡(紀元前108年設置)のはるか海上にあると認識されていたのです。しかし、倭は海中にあっても孤立した存在ではなく、海路で世界とつながっていました。縄文・弥生時代を通じて朝鮮半島南部と交流し、楽浪郡が設置されるや、これを窓口として中国系文物(青銅鏡などを移入しました。やがて1世紀には、中国後漢朝貢するなど、国どうしの交わりが生まれました。こうして倭人は国際秩序を知るようになるのです。

 やがて倭国大乱を経て、2世紀末には卑弥呼を女王とする小国の連合体(倭国)が成立しました。卑弥呼は、中国に鼎立した三国(魏・呉・蜀)のうち魏に朝貢し、皇帝から印綬や布、銅鏡100枚等を下されています。魏は、遼東半島の公孫氏(燕)を滅ぼして政権を安定させたばかりでしたが、卑弥呼はすかさず国交を結ぶ国際感覚を発揮しています。

 古墳時代のころには、朝鮮半島高句麗新羅百済伽耶の諸国が成立し、互いにせめぎあいます。最初に倭は伽耶と関係を深め、4世紀には洛東江下流金官伽耶と、5世紀には洛東江中流の大伽耶と結んだことが出土遺物の傾向からわかっています。なお、5世紀後半~6世紀初めに限って、半島南西部の栄山江流域に倭系の前方後円墳が築かれ、埴輪の模擬品が並べられました。この時期は、倭はこの地域(のちに百済編入)と政治的なかかわりを深め、さかんな人の交流があったと推定されます。

 ところで朝鮮半島北部の高句麗はつねに南下政策をとり、ときには新羅を従えて、百済を圧迫しました。このため百済は倭に軍事支援を求め、その見返りとして技術や文化・人材(渡来人)を倭に提供したのです。倭が軍事行動をした事実は、高句麗に立てられた広開土王妃(414年・中国吉林省集案市)に刻まれています。4世紀後半以降、倭には渡来人が多くやってきて技術や知識をもたらすとともに、ヤマト政権の内部に参画していきます。

 倭は、つねに親百済外交政策を展開しますが、朝鮮半島情勢は激化し、562年に大伽耶が滅亡して新羅に併呑されます。倭は、外交上は新羅を敵視していましたが、文物の交流はさかんであり、新羅系の遺物が日本の古墳から多く出土しています。

 一方で、倭は5世紀には中国の宋(南朝)に朝貢し、その傘下で高い位を得て朝鮮半島諸国との関係を有利に進めようと画策します。代々5人の大王が使者を遣わし、倭王に封じられたことが『宋書』に記されており、最後の倭王武は、長文の上表文を宋の皇帝に送っています。その後関係は中断しますが、飛鳥時代になると、倭国は中国を統一した隋・唐に遣隋使・遣唐使を送り、中国の政治システムを吸収しようとします。ここから本格的な国家形成に向けた歩みがはじまっていくのです。

(参考文献)

若狭徹「さかんな東アジアとの外交」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年