にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 寒冷化と神への祈り

 環境変化

 福井県水月湖の堆積物からみた対岸の中国から飛来する土壌の研究、鹿児島県屋久島に自生する屋久杉の炭素同位体比からみた気温変化の研究、群馬県尾瀬ヶ原や各地の遺跡の花粉を調査した研究などの成果によると、弥生時代後期から古墳時代の時期は、今より気温が低い「寒冷期」であったと推定されています。

 寒さは世界的で、ヨーロッパでは5世紀にゲルマン民族の大移動がおこり、世界最大の西ローマ帝国が滅亡しました。中国でも3世紀前半(後漢末期)から北方民族鮮卑が南下し、4世紀から100年以上諸民族が争う混乱の時代(五胡十六国時代)がつづきました。これら民族の大移動は、気候の悪化に起因するとされています。

 西日本では、弥生後期の水田が砂に埋没している例が多く知られており、寒冷化による植生の変化や降雨量の増加によって洪水が頻発したとみられています。また、東日本では浅間山榛名山、富士山の噴火があり、噴煙による日照不足などもおっこたと想像されます。

 このように、寒冷化のために農業生産物および動植物への影響が生じ、食糧難や居住域の減少、疫病の流行などによって、国際的な人の移動や紛争が発生したのです。これまで述べたように、古墳時代には社会の統合や国際化が大きく進みましたが、これは政治的な動きだけではなく、環境変化という、止むなき事情に突き動かされた面も無視できません。

 祭祀

 こうした自然の驚異に対して、人びとは技術的な対処もおこないましたが、一方で神に祈ることによって災厄を鎮め、神の意志を聞いておこないを判断するという宗教的側面を強くもっていました。そうした人びとの行動の結果残されたのが各地の祭祀遺跡です。

 福岡県沖ノ島では、朝鮮半島への航海の安全を願って古墳時代から平安時代まで妻子がつづけられ、祭祀様式の変遷をたどることができます。まず古墳前期には巨石の上に祭場が設けられますが、中期後半には岩陰に、奈良時代には露天の場に祭場が移行します。神への供物は、道鏡・武器・武具・馬具・装身具・土器・石製模造品、鉄製品や土器のミニチュア品がみられ、古墳の副葬品と共通しています。このため古墳の被葬者そのものも神格化されていたとみる説もあります。

 古来日本では、神々は形がなく浮遊し、岩などの憑代に下りると観念されていました。『古事記』には、琴の音が響くなかで神が司祭に下り、その口を借りて神意を述べる様が記されていますが、人物埴輪群像の一部にはまさにその場面が表現されています。

 神がまつられたのは、姿の優れた山、巨石、峠、港湾、川などの交通の要衝や難所、井泉やそこから水を引いた祭場などでした。祭場では、木製の形代が多く発見され、神を迎えて多様な所作儀礼がおこなわれたようです。また、土器の集積の多くも祭場と考えられ、ムラの辻や樹の下、田畑の脇などに八百万の神々がまつられたと考えられます。


(参考文献)

若狭徹「寒冷化と神への祈り」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年