にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 古墳の最後

 前方後円墳は西日本では6世紀後半に終焉し、関東でも少し遅れて姿を消します。奈良盆地では五条野丸山古墳(140m)を最後にして築造を停止します。時は、中国隋にならって新国家体制をめざした推古天皇厩戸皇子聖徳太子)・蘇我馬子の治世。政治システムや思想の転換が、前方後円墳を過去のものとさせたのです。しかし、古墳そのものは次の飛鳥時代(7世紀)まで造られました。これを終末期古墳とよびます。飛鳥の宮や藤原京を営み、壮麗な仏教寺院を建立した時代になっても、旧来の墓制は根強く残ったのです。

 前方後円墳の後、最上位の墓となったのは方墳でした。これは隋・唐や高句麗の王陵が方形だったからで、倭国古墳時代の豪族連合状態を脱却し、中国風の国家をめざしたことに関係します。奈良県植山古墳(40×27m)や、石舞台古墳(1辺51m)、大阪府山田高塚古墳(1辺63m)などが代表的で、地方でも最有力の豪族は大型方墳を築造しました。このころ政治を支配した曽我氏とその系統の豪族が方墳を、非曽我氏系が円墳を採用したとする意見もあります。なお、方形の基壇の上に円墳をのせた上円下方墳も知られています。

 その立地は、前代に比べて、丘陵中服や谷間の南斜面が好まれ、大陸の風水思想の影響が考えられます。外形が小さくなる一方で内部に凝り、墓室を切石で精緻に組み上げたり、巨石をくり抜いて加工し、まれには漆喰を塗って壁画を描くことがおこなわれました。7世紀中ごろには八角墳が創出されて最上位に位置づきますが、奈良県段の塚古墳、牽午子塚古墳、野口王墓古墳など、大王陵(天皇陵)にほぼ限られたようです。

 渡来人や有力農民、下級官人たちが葬られた群衆墳もこの時期までつづきました。群衆墳とは、主に円墳が群を成す集団墓地です。副葬品も武器・装身具・馬具などが出土することから、これらの階層の人々にまで、富の蓄積が進んでいたことを教えてくれます。しかし、奈良時代(8世紀)を迎えると、群衆墓も一斉に終焉してしまいます。平城京で新たな政治体制(律令体制)が築かれると、古墳という古いしきたりは終わりを告げ、新時代のシンボルである仏教思想にもとづいた弔いがなされるようになったのです。

 一方、古墳時代には古墳以外の墓制があったことも忘れてはなりません。北日本には、続縄文文化オホーツク文化の土壙墓や木槨墓が、南西諸島には貝塚後期文化の土壙墓が存在し、前者には土器や鉄器・石器などの副葬が、後者には遺体に貝輪の装着がみられるなど独自の文化を有していました。また、古墳文化が栄えた地においても、洞穴葬、横穴墓、地下式横穴墓、土壙墓が重複していました。とくに横穴墓は古墳と並んで分布し、古墳を作った集団とは異なる階層・出目・職業の人びとが存在したことを示しています。このように古墳時代の墓制は、じつに複層的かつ多様であったのです。

(参考文献)

若狭徹「最後の古墳、古墳の周辺」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年