にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 クリ林について② 三内丸山遺跡

 クリ林の育成と縄文人との関係がもう少し明瞭にみえてきたのは青森県三内丸山遺跡です。三内丸山遺跡は台地上に盛土や建物群、住居域、墓域がある大規模な集落遺跡で、1990年代にさまざまな調査が行われました。この大地の真ん中にある南の谷や北の谷で花粉分析を行いました。三内丸山遺跡での花粉の変動を、八甲田山の田代平での花粉の変動と比較すると、三内丸山遺跡での花粉の変動の特徴がみえてきます。

 三内丸山遺跡では、縄文時代前期中葉頃に大地の上に人が集落を営みはじめて、縄文時代中期の終り頃にはその集落を廃絶してしまいます。花粉の変遷をみると、縄文人三内丸山遺跡に住み着いたとたんにクリの花粉がものすごく増えて、それ以前のナラ林からクリ林にかわっています。そして、集落が廃絶するとすぐクリ花粉が減少し、ナラとトチノキの林におきかわっています。実際のクリ花粉は多いときは80%ぐらいを占めており、三内丸山遺跡の大地の上にはほぼクリしか生えていない、かなり密度の高いクリの純林があったと考えられています。八甲田山の田代平は少し標高が高い場所ですので単純には比較できないのですが、三内丸山遺跡に集落が営まれていた期間には、まったく花粉の組成が変動しておらず、ブナやナラの森林が存続していたことがわかります。すなわち、人為の影響のないところでは植生は変化しておらず、縄文人が集落を構えたところの周辺で植生が大きく変動していたのです。1990年代には、こうした事実から、東日本に住んでいた縄文時代の人びとは、集落をつくると、その周辺にまずクリが多い林をつくりだし、それを維持・管理して、活用していたことが明らかとなりました。しかし、そのクリ林を縄文人がどういうふうに維持していたかまではみえませんでした。では当時、どのように考えたかというと、現在の森林、とくに森林生態学の知識をもとに、クリ林の維持の仕方を考えたわけです。つまり、「薪炭林の維持」というのをモデルとして、縄文人の森林資源利用を想定したのです。

 薪炭林は20年から30年ごとに伐採して木材を薪に使ったり、炭にして使ったりします。樹木が育つ間には落ち葉かきをしたりして下草を刈ったりして、肥料あるいは家畜の飼料として使っていました。一本の根株から幹が三本出ている木がありますが、こういう萌芽再生という形で、薪炭林は維持されてきました。木を伐採すると、地表に根株が残ります。根株が残っていると根はしっかりしていますし、根株には栄養分が蓄えられていますので、たくさん萌芽が出てきます。それをだいたい15年から25年維持して大きく育てて、その間に下草刈りや落ち葉かきなどを行い、木々が適度な大きさに育ったらすべて伐採したのです。1960年代におこったエネルギー革命までは、こういう形で薪炭林を維持して、燃料として使っていました。萌芽を活用して林を再生すると、あらたに植林するよりも、薪炭林は圧倒的に早く回転できるわけです。薪炭林の管理ではこういう回転をだいたい20年から30年ごとにやっていました。縄文人とクリ林との結びつきがみいだされた当初は、縄文人もこうして森林を管理していたのかなと考えていました。しかし、下宅部遺跡の発掘成果によって、縄文人の森林管理の実体は、こうした薪炭林の管理とはまったく異なることが明らかになりました。

(参考文献)

工藤雄一郎「三内丸山遺跡の調査からみえてきたこと」

     『ここまでわかった!縄文時代の植物利用』新泉社2014年