にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 縄文時代の分業

 翡翠や黒曜石など原産地が限定されているものが、各地の縄文遺跡から発見され、このことが縄文時代に活発な「交易」があった証拠とされてきました。しかし、辞書で「交易」を引くと、「互いに品物を交換して商いすること」と説明しています。このように、「交易」という用語には商い、つまり交換によって利益をえるという意味があります。「交易」にはのちの商人へと発展する集団の介在があることから、社会的分業が成立してはじめて可能な経済活動といえるのです。

 では、縄文時代を代表する「交易品」といわれている翡翠で考えてみます。列島内での翡翠は、質の良し悪しを区別すれば、北海道から長崎県まで約10ヵ所で確認されていますが、縄文時代の遺跡から出土した翡翠の原産地は、すべて新潟県の姫川と青海川産であることが、蛍光エックス線分析によって確かめられています。新潟県西頸城地方には、縄文時代の硬玉生産遺跡が分布しています。それは硬玉の製品と未製品、それから加工具などの出土遺物とその出土状況から、硬玉が生産されたと特定できたのです。しかし、硬玉生産遺跡として古くから著名な長者ヶ原遺跡にしろ、硬玉工房をともなう竪穴住居跡が検出されたことで知られる寺地遺跡にしろ、硬玉に関係した遺物を除けば、

石鏃、打製石斧、石皿、磨石、磨製石斧、石錘などの出土遺跡は、ほかの遺跡とまったく共通しています。硬玉生産遺跡といえども、狩猟、植物採取、漁労活動という基本的な生業活動はおこなっていたのです。

 一方、縄文時代の生産遺跡として、もっともよく知られているのが、土器を使い、海水を煮沸(煎熬)して食塩の結晶を採取した製塩遺跡です。煎熬に使う土器(製塩土器)は、大量消費と熱効率を高めるために、粗製で無文の薄手につくられるだけでなく、使用後の土器は、器壁がはがれ、飴色や灰白色の炭酸石灰(CaCO₃)が付着するなどの特徴があります。また、煎熬で長時間火を使いますので、遺跡には、大量の焼土や灰が残されます。こうした大量の製塩土器と、焼土や灰の層の出土状況から、縄文時代にも土器製塩をおこなっていたことが明らかとなったのです。そして、製塩遺跡以外の遺跡から製塩土器が出土し、しかも、それが海からはるか離れた内陸部の遺跡で出土することから、製塩遺跡でえられた余剰生産物としての塩が、交換物として広い範囲に供給されていたことは間違いありません。しかし、製塩遺跡として著名な茨城県の法堂遺跡からは、製塩遺跡に関係した遺構・遺物以外にも、貝塚と獣骨が遺存し、打製石斧・石皿・磨石・敲石などが出土しています。ここでも、狩猟・植物採取・漁撈活動という基本的な生業活動はおこなっていたのです。

 ということは、縄文時代の硬玉や塩などの生産活動は、たとえ余剰生産物を生みだしていたとしても、そこでの生産は、食料を獲得するための生業の片手間におこなわれていたことになります。つまり縄文時代の分業は、いまだ自然条件に制約された未発達な段階にあって、商人などが介在する「交易」とよばれるような経済活動ではなかったことになります。

(参考文献)

勅使河原 彰「分業の特質」『縄文時代ガイドブック』新泉社2013年