にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 縄文時代のイネ

 縄文時代に何らかの農耕があったとする、いわゆる縄文農耕論は古くから議論されてきました。たとえば在野の考古学者として著名な藤森栄一は、戦後の早い時期に、中部高地の縄文遺跡の繁栄と非狩猟的な道具の組み合わせなどから、少なくとも縄文中期には農耕があったと主張しました。しかし、農耕の直接の証拠となる栽培植物が発見されなかったこともあって、藤森などが主張した縄文農耕論は、仮設のままとどまらざるをえませんでした。

 ところが、福井県の鳥浜貝塚ヒョウタンやエゴマなどの栽培植物が発見されると、堰を切ったように、各地の縄文遺跡から栽培植物の発見がつづきました。とくにプラント・オパール分析法やレプリカ法など新たな分析法の開発によって、後・晩期の西北九州を中心にイネ、ムギ、アワ、ヒエなどの穀物類と思われる資料まで発見されてきています。

 こうした研究によって、縄文時代に植物の栽培、それも後期・晩期の西北九州を中心にイネなどの穀物類まで栽培されていたことは、もはや確実となってきました。では、これで縄文農耕論が立証されたかというと、ことはそう簡単ではありません。というには、縄文時代に植物の栽培があっても、それらが歴史を変えるような存在になりえたかという、その役割こそが歴史学では問題となるからです。しかし、経文時代の植物の栽培は、数千年間という長い間、大きな発展をみせることなく、ついに一時たりとも、縄文時代の生産や社会を恒常的に支える経済基盤とはならなかったのです。

 縄文時代にイネまで栽培されていました。それなのに、なぜ縄文人は自然物にたよる生活をやめて、計画的に食料を生産する生活に切り替えなかったのでしょうか。その謎は、実は縄文時代の栽培形態にあったのです。水田稲作以前の縄文時代のイネは、種子圧痕が出土した遺跡の立地や石器組成などの考古資料だけでなく、福岡県の四箇遺跡や宮崎県の桑田遺跡などのプラント・オパール分析や花粉分析によっても、焼畑による栽培だったと想定されています。しかも、藤原広志によれば、縄文土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、多くが畑作系の熱帯ジャポニカだということです。

 火山灰土壌が広くおおう日本列島は、作物の生育に重要なリン酸が極端に不足するばかりか、作物に不向きな酸性土壌のため、大規模な土壌改良なしには、畑作として不適な土地です。また、畑作であっても、雨量が多い温帯モンスーン地域にあるため、肥料となる灰が多量の雨で流失してしまうことから、十分な効果は期待できません。それ以上に厄介なのは、雑草の繁茂で、その処理に大変手間がかかります。そのため、イネのどの栽培植物が縄文時代にもちこまれながらも、それは野生の植物との境界がないような多様な利用という、あくまで獲得経済の枠の中での利用にとどまらざるをえなかったのです。 

 しかし、縄文人がイネなどの植物栽培の知識と経験をもっていたことが、つぎにくる水田稲作などの農耕生活を受け入れる準備を進めることになったことも、また確かなことです。

(参考文献)

勅使河原 彰「縄文のイネの謎」『縄文時代ガイドブック』新泉社2013年