にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 「前・中期旧石器遺跡捏造事件」について③

 捏造事件後、日本考古学界では「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」が組織され、三年間の検証がなされ、男が関与した遺跡や石器のすべてについて「学術資料として扱うことは不可能」との見解が示された。

 また、猛省を伴ってその後の旧石器遺跡調査方法の改善もなされた。発掘調査は、ある意味で破壊行為であり、一度掘ってしまうと再現不可能となる。しかしその後は、発掘調査を追検証できるようなより精緻な記録化、不正を見逃さないような第三者の立ち合いによる石器取り上げなどもなされ、発掘調査の透明性・公開性が高められた。そうした調査方法は、長野県竹佐中原遺跡の発掘調査などで実践された。

 一方、マスコミの考古学報道は、事件後も静まることはなかった。ニュースとは世間の注目を集める行為でもあるのだから、仕方のないことだろう。一方で受け手にも情報を評価・識別する、メディア・リテラシーが要求されているといえる。

 考えてみると、捏造や虚偽は世間に溢れかえっている。食品産地偽造や政治資金の虚偽報告等。「捏造はあってはならない」が、むしろ「いつでも起こりうる」と考えていたほうが現実的である。

 男が関与した前・中期旧石器遺跡とされるものは、すべて消えた。一方で、男と関係のない数万年の古さをもつという星野や早水台の出土品については、私自身(堤隆)は自然石であり石器とは考えていない。また、最近の佐多中原遺跡や金取遺跡などは、間違いない石器であるが、その年代には検証の余地が残る。すなわち、四万年前を超える古さの遺跡で、万人を納得させるものは、現状では皆無といえる。

 四万年前をさかのぼる古い遺跡が日本列島に残されたとすれば、アフリカからの拡散の時間的スケールから推し量ってもホモ・サピエンスのものではありえず、それ以前の形質をもつ人類のものということになる。前タイプの人類の生存個体数や、日本列島への渡来を阻んだ海峡の存在、逆に陸橋の成立の限定性を思うにつけても、私(堤隆)はその存在を積極的に考えることはできない。

 昨今、「最古探し」の兆しが再び見え隠れしているかのようであるが、私には捏造のトラウマがいまだに激しく、やや冷めた眼差しでその動静を見ずにはおれない。

(参考文献)

堤隆「前・中期旧石器遺跡捏造事件」『古墳時代ガイドブック』新泉社2009年

 今回をもって「にわか考古学ファンの独り言」は終了させていただきます。

 誰もが日本人のルーツを知りたいと思っているはずです。それゆえ、考古学は広くて深い大変興味深い学問だと私は思います。私の拙いこのブログを読んで考古学ファンが増えることを願っています。また機会があれば書いてみたいと思っていますので、その際はよろしくお願いします。

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 「前・中期旧石器遺跡捏造事件」について② 

 「最古探し」に必死の考古学研究において、迷いもなく研究者は虚偽の海に泳がされた。そのなれあいで無批判な体質、発見やロマンという名の危うい罠、検証されずに流し続けられる考古学的ニュースなど、背後にある脆弱な構造も炙り出された。一方で、捏造とは知らず、「発見」を許容してしまった理由が別にある。

 捏造行為がなされる以前、日本列島において四万年前以前、いいかえると後期旧石器時代以前に人類がいたかどうか、学会を二分する大論争があった。「前期旧石器論争」である。

 肯定派は、「珪岩性石器」と呼ばれるある種の資料をとらえて、それを四万年前をさかのぼる「石器」だといい、否定派は単なる自然の産物、つまり「石ころ」に過ぎないとつっぱねた。いずれにせよそれらに残された剥離は、人為なのか、自然の営為によるものなのかの判断が二分される難しい資料であった。

 宮城県座散乱木での「石器の発見」は、その論争に終止符を打った。誰もが石器と認める資料が、四万年以上前の地層から「発見」されたからである。この行為はまったく遺跡ではない場所に石器を埋め込むという「遺跡捏造」であったが、埋め込まれた石器自体は捏造品ではなく本物だった。ただし、それは旧石器時代以降のまったく新しいものであったが、誰もが石器と認める迷うことのない形をしていた。

 考古学界は「前期旧石器論争」のいきづまりから、人工品として疑いようのないしっかりした石器の出土を研究者は必然的に求めていた。しかもこの資料は、年代の明らかな古い火山灰層の下から発見されている。「層位は形式に優先する」という言葉がある。どのようなかたちのものであろうと、出土した地層がその時代を決めるという認識である。前期旧石器は未知なるものであるがゆえ、捏造など考えもおよばず、その地層の年代をもって石器を認めてしまった。それ以後、不正行為が繰り返された。

 男が愉快犯だったのか、名誉欲の持ち主だったのか、精神的に病んでいたのか、そんなことはどうでもいい。捏造は起きてしまったのだ。そして、それを許してきた考古学界の体質こそ問題なのだろう。

 ところで発覚以前に、この「発見」を疑問視する声はあった。ただ、新聞やテレビを連れ出して目の前で石器を掘り出し、日本中にニュースとして発信されるような大胆な捏造行為が、間違ってもなされるとは思わなかった。愚かだったというほかあるまい。

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 「前・中期旧石器遺跡捏造事件」について①

 目を覆うようなスクープが2000年11月5日、毎日新聞の朝刊トップを埋めた。「前・中期旧石器遺跡捏造事件」の震撼が、日本中へと広がった瞬間だった。

 「神の手」の異名をもつ男は、縄文遺跡などから採取してきた新しい石器をポケットにしのばせ、後期旧石器をさかのぼる四万年前以前から、発覚直前にいたっては70万年前といった古い火山灰層の中にひそかに埋め込んだ。

 男はその後、大勢の目の前で自ら埋めた石器を掘り出し、たった今発見したかのようによそおった。まさに自作自演の捏造行為である。「神の手」とは「悪魔の手」に他ならなかった。

 その「発見」に疑いを抱き続けてきた研究者の助言をもとに、宮城県上高森で張り込みを続けた記者が、捏造の瞬間を押さえたのだった。

 男は、自ら遺跡発掘に積極的関与をするようになった70年代、すなわち四半世紀も前から捏造を繰り返していた。関与したすべての場所が汚染されたらしく、捏造は200ヵ所近くにおよんだ。宮城県の座散乱木、馬場壇、上高森、福島県一斗内松葉山、埼玉県小鹿坂、北海道総進不動坂などが捏造現場となった。捏造が暴かれる直前までこれらの「遺跡」は、列島の人類史を10万年単位でさかのぼらせる発見として、新聞のトップを飾ることもしばしばだった。

 旧石器研究は、捏造事件によって失墜した。日本考古学最大の汚点である「前・中期旧石器遺跡捏造事件」について、ふれてみたいと思う。

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 「前・中期旧石器遺跡捏造事件」について①

 目を覆うようなスクープが2000年11月5日、毎日新聞の朝刊トップを埋めた。「前・中期旧石器遺跡捏造事件」の震撼が、日本中へと広がった瞬間だった。

 「神の手」の異名をもつ男は、縄文遺跡などから採取してきた新しい石器をポケットにしのばせ、後期旧石器をさかのぼる四万年前以前から、発覚直前にいたっては70万年前といった古い火山灰層の中にひそかに埋め込んだ。

 男はその後、大勢の目の前で自ら埋めた石器を掘り出し、たった今発見したかのようによそおった。まさに自作自演の捏造行為である。「神の手」とは「悪魔の手」に他ならなかった。

 その「発見」に疑いを抱き続けてきた研究者の助言をもとに、宮城県上高森で張り込みを続けた記者が、捏造の瞬間を押さえたのだった。

 男は、自ら遺跡発掘に積極的関与をするようになった70年代、すなわち四半世紀も前から捏造を繰り返していた。関与したすべての場所が汚染されたらしく、捏造は200ヵ所近くにおよんだ。宮城県の座散乱木、馬場壇、上高森、福島県一斗内松葉山、埼玉県小鹿坂、北海道総進不動坂などが捏造現場となった。捏造が暴かれる直前までこれらの「遺跡」は、列島の人類史を10万年単位でさかのぼらせる発見として、新聞のトップを飾ることもしばしばだった。

 きゅうせっきけんきゅうは、捏造事件によって失墜した。日本考古学最大の汚点である「前・中期旧石器遺跡捏造事件」について、ふれてみたいと思う。

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 

 旧石器人の食事 

 私たちとは異なる人類であるネアンデルタール人は、出土人骨に残るコラーゲンの同位体分析結果では、肉食中心の食生活で、食物連鎖の最上位にあったことが明らかにされています。彼らはマンモスや毛サイなどの大型哺乳類を選択的に狩猟し、それらがより重要な食料資源だったという指摘がなされています。

 これに対し、ヨーロッパのホモ・サピエンスであるクロマニヨン人は、肉食だけでなく淡水魚なども口に運ぶ多角的な食料採取をおこなっていたという推論があります。

 たとえば、シベリアのホモ・サピエンスが残したマリタ遺跡では、マンモス(9体)・毛サイ(11体)トナカイ(407体)・ヤギュウ(1体)・ウマ(2体)・北極ギツネ(50体)・オオカミ(1体)・グズリ(2体)・ライオン(1体)のほか、魚類の骨が出土しているといいます。トナカイに偏りながらも、、他の動物や魚類の利用もうかがえます。

 残念ながら、日本の後期旧石器時代ホモ・サピエンスたちが利用した食料についての手がかりはほとんどありません。遺跡からは、動植物遺体がきわめて稀にしか見つかりませんし、人骨の出土例がなくそのコラーゲン分析などができないこともあります。

 北海道柏台I遺跡の炉跡からは、シカ科の可能性がある焼けた骨片が、神奈川県の吉岡遺跡群ではイノシシの歯が見つかりました。シカやイノシシなどを食べていたという点では、縄文時代に近い状況があります。宮城県の宮沢遺跡では、二万5000年前のシカのフンがありました。宮沢の旧石器人たちもシカをとっていたのでしょう。

 旧石器時代というと一般にナウマンゾウやオオツノジカなど大型獣が思い起こされますが、これらがどの程度仕留められていたかは、具体的証拠に欠けています。最近では、大型獣の狩猟に疑問を呈す意見もあります。

 植物質食料の手がかりもかなり限られています。新潟県荒屋遺跡の住居跡や貯蔵穴から、オニグルミ・ミズキなどの種子が出土し、食用と考えられます。静岡県広野北遺跡の土坑からもオニグルミが出ています。このほか、チョウセンゴヨウやハシバミなどの実、ベリー類ではコケモモやクロマメノキ、ヒメウスノキなども食べたことが考えられます。ハシバミは熱を加えずともそのまま食べられ、栄養価も高く美味しいナッツです。

 南九州などの遺跡では、ナッツ類をすり潰すための磨石が数多く出土します。木の実があまりとれない北方に比べ、より暖かい九州などでは、ナッツ類の利用が進んだことがうかがえます。最近では磨石に残るデンプン粒をさがし、どんな植物をすり潰していたのか究明する試みも始まりました。旧石器時代でも、地域の環境に応じた食生態の違いがあったことでしょう。

(参考文献)

堤隆「旧石器人は何を食べたか?」『旧石器時代ガイドブック』新泉社2009年

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 旧石器時代の地域性

 北緯二四度から四六度におよぶ南北に長い日本列島は、さまざまな環境変化をみせています。たとえば真冬でもTシャツ一枚で過ごせる沖縄から、マイナス二〇℃を下回りストーブをガンガンと炊き続ける北海道旭川では、大きく環境が異なります。さらにはアフリカのカラハリ砂漠に生きるブッシュマンから北海道のイヌイットまで、人間が暮らす場所はさまざまです。このように地球上のあらゆる環境の中で生きぬいている哺乳類は、ホモ・サピエンスただひとりといえるでしょう。

 人間があらゆる環境で生きていけるのは、徐々に整えられた身体の適応機能もさることながら、道具と技術、そして文化を手に入れたからにほかなりません。アフリカを旅立ったホモ・サピエンスの前に大きく立ちはだかったのは、二万年前のシベリアの氷雪でした。そこで旧石器人たちは、寒さをしのぐために毛布をはおり、氷雪に耐える堅牢な住居を構築し、さらに歩みを進めます。そしてベーリング海峡を越えて、それまで無人の地であった新天地アメリカ大陸へと渡るのです。

 シベリアのブレチ遺跡からは、マンモスの牙で作った旧石器の人物像が発見されていますが、それにはフード付きのパーカーが表現されており、人びとが暖かな皮の衣類を身にまとい寒さをしのいでいた様子がうかがえます。

 暖かな皮革製品をつくるための皮なめしの道具に、「搔器」があります。掻器の分布密度を列島の南北に追うと、かなり明瞭な違いが現れ、環境適応の地域差をよく示しています。

 細石刃石器群の時期には、北海道では遺跡総数の60%が掻器を保有するのに対し、東北地方では50%、中部・関東では30~20%、近畿から九州の西日本では10%未満の遺跡に掻器が認められるだけです。ですから、日本列島においてもより高緯度地域では、掻器が充実して装備され、掻器を用いた皮革利用システムが機能し、寒冷な環境への技術適応として、優れた防寒性を発揮する毛皮革製品の製作に力が込められたことを物語っています。

 彫刻刀のような刃をつけた彫刻刀形石器と呼ばれる石器も、掻器と同様、東日本には多くて、西日本には極めて少ないという傾向があります。使用痕分析において彫刻刀形石器一部は、骨格等の加工に用いられたことが判明しており、骨角器等の製作の粗密においても東西差が生じていたことをうかがわせます。

 これに対しより温暖な南九州などでは、磨石や台石・石皿などといった堅果類加工具とみられる石器が充実して装備される傾向が強く、温帯林から採れる堅果類への依存の高さを示しています。寒冷な環境のマーカーとなる掻器と比べ、より温暖な環境を反映した存在として興味深い石器です。

(参考文献)

堤隆「あらゆる環境への適応」『古墳時代ガイドブック』新泉社2009年

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 陥し穴について 

 遠く富士の雄姿を望む箱根山麓の初音ヶ原遺跡の尾根には、人をすっぽりと飲み込んでしまうほどの穴が赤土に掘り込まれていました。箱根山麓を生活の舞台に組み込んだ旧石器人たちが掘った穴です。スコップなどの掘削具のない時代、おそらく木の棒などでこの穴を掘ったのかもしれません。いずれにせよかなり困難な作業だったと思われます。

 ラッパ状に開いた土坑と呼ばれる穴は、平均的には、開口部の大きな深さともに1,5mほどのものでした。発掘を続けていくと、穴が連綿と続いていました。結局60基ほどの土坑が見つかり、尾根を横切るように幾重にかめぐらされていることがわかりました。姶良Tn火山灰の下から見つかったこの土坑には三万年前をさかのぼる年代が出されています。

 この土坑は、陥し穴であることは疑いようもありません。それまで旧石器時代の狩猟といえば、石器を柄の先につけた石槍猟が漠然と想定されていましたが、陥し穴という罠にかける猟があったことを裏付ける発見です。こうした旧石器時代の陥し穴は、現在では箱根・愛鷹山麓を中心にいくつかの遺跡が見つかっています。では、いったいどんな動物を、どのようにして獲ったのでしょう。

 これは、動物が落ちるのを待った縄文時代のような陥し穴ではなく、集団で動物を陥し穴まで追い込み、その場でとどめを刺すという狩猟法を想定しています。陥し穴のある場所が「尾根に沿って動物の群れを追い落とすことのできる地形」と評価します。ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣にもこの陥し穴は適用可能であったといいます。一方、ナウマンゾウなどの大型獣は想定せず、移動するシカやイノシシを落として獲ったと考える研究者もいます。

 この陥し穴について、追い込みによって短時間に獲物を得るものか、見回りなどを定期的におこなって獲物が掛かるのを時間的に待つものと評価するかは、重要な論点の違いとなります。後者の場合、遊動生活が基本であった旧石器人でも、通年居住とはいわないまでも、一定程度の滞在をしなければ見回れないことから、その生活スタイルについての考えを改めなければならないからです。

 こうした陥し穴は、本州では箱根・愛鷹山麓以外に横須賀で発見されています。この地域の生態系に適応した独自の行動戦略であり、狩猟システムであると評価していいかもしれません。

 2007年、今度は鹿児島県種子島の大津保畑遺跡で12基の土坑が見つかったと報道がありました。その深さは1,2~1,4メートルほどで、上部はラッパ形に開いています。下部はフラスコ状に膨らむものがあって、獲物を逃げにくくする工夫かもしれません。これも三万年を超す古さのもので、大きさから中・小型獣の陥し穴とみて間違いないでしょう。

(参考文献)

堤隆「仕掛けられた陥し穴」『古墳時代ガイドブック』新泉社2009年