にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 磨かれた斧

 旧石器時代の定義を覆す発見が、日本列島で相次ぎました。刃の部分を研磨した局部磨製石斧の発見です。この時代には、磨製石器がなく打製石器を用いていたという主要な定義のひとつは、完全に見直しをかけられることになりました。しかも、この局部磨製石斧は、後期旧石器時代の幕開けを飾る古い石器であることがわかっています。

 長野自動車道を新潟方面に向かい、ナウマンゾウの湖で知られる野尻湖へとさしかかるゆるやかな坂の真下で、1993年、60点もの局部磨製石斧を出した日向林B遺跡の環状ブロック群の発掘が始まりました。60点の石斧は遺跡から50~60キロほど離れた新潟・富山・長野県境に産出する蛇紋岩類で作られていました。この遺跡の年代は、32000~36000年前と出されました。

 この局部磨製石斧がどのように使われたかについては、現在大きな「機能論争」が巻き起こり、いまだの決着にはいたっていません。大きくは二つの説に分かれています。

 A 木材の伐採・加工具説

 B 動物の解体・加工具説

 「獲得した獲物の解体、皮剝ぎ、皮加工にもちいた蓋然性が高い」との見解を示したのは麻柄一志さんです。春成秀爾さんも早くから同様な見方を示しています。

 これに対し、「木材の伐採・加工説」を強調するのは稲田孝司さんです。長崎潤一さんは、積極的な木材利用ー森林利用ーのための道具として特殊化したものと石斧を評価、佐藤宏之さんは局部磨製石斧の激しい損傷・変形からヘビー・デューティーな道具で、石器の木質柄部製作や当時のテント状住居の柱材加工をおこなっていたものだと推定しています。

 争点のひとつである日向林B遺跡の石斧について、使用痕分析をおこなってみたところ、まず小さな石斧を顕微鏡で見ると、刃に皮なめしの使用痕がついていました。一方、大きな石斧のなかには、まっぷたつに折れていたり、刃が大きく欠けていたりするものがあることから、「横斧的に装着され対象物に振り下ろして打撃するような使用法」を想定し、木材の伐採・加工などハードワークに使われていたものと考えました。

 おそらくこの局部磨製石器は、当初は木材の伐採・加工などの使用され、刃が何度もダメージを受ける中で研ぎ直され、石器が小型化してくると、今度はその用途を変え、皮なめしなどの軽作業に機能転化したのだと思われます。やや折衷案的なこの考えを「木材伐採・加工・皮なめし説」としておきます。この局部磨製石器は、後期旧石器時代の後半期になるとぷっつり姿を消してしまいます。木材の伐採などの要請がなくなったのでしょうか、謎の消滅といえます。

(参考文献)

堤隆「磨かれた斧」『古墳時代ガイドブック』新泉社2009年

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 旧石器の進化

 人類が持った最初のツールである旧石器は、狩りをする、調理する、あるいは道具を製作するために用いられ、自らの生命をゆだねる道具として、創意工夫をもって進化を遂げてきました。また、石器を保有する集団によっても、そのデザインが異なりました。

 富士山の火山灰などが厚く積もった箱根・愛鷹山麓や相模野台地武蔵野台地などでは、深いローム層の中から石器が発見されます。「地層累重の法則」により古い石器ほど下の地層に埋もれており、いくどかの生活の痕跡が積み重なってみられます。ひとつの地層から発見される一定の時間内の石器群のまとまりは「文化層」などとも呼ばれています。遺跡や遺物を、時系列に順序だてて並べる歴史的枠組みを「編年」といいます。

 神奈川県海老名市の柏ケ谷長ヲサ遺跡では、地上より六メートルほどの深さにおよんで時期の異なる十三枚の石器文化層が発見され、石器群の編年が組まれました。石器を包含するローム層は、明るい色の部分と暗い色の部分とがあって、地層の違いがよくわかります。暗い色の部分は黒色帯と呼ばれています。

 その第二黒色帯の下の明るいローム層中には、きな粉のような火山灰がぽつぽつと含まれていました。これは姶良Tn火山灰(AT)と呼ばれるもので、およそ29000年前の鹿児島湾北部の姶良カルデラの巨大噴火によって、国内各地に降った広域火山灰です。日本列島の後期旧石器時代は、この火山灰を目安に、前半と後半に分けられます。

 後期旧石器時代初頭の第1期、列島にやってきたホモ・サピエンスたちは刃を磨いた石斧と台形様石器を手にし、環状のキャンプを設けて、新たな生活をスタートさせました。第Ⅱ期には人びとはナイフ形石器を技術開発します。AT火山灰が降り、後期旧石器時代後半期になると、地球は酸素同位体ステージ2のきわめて寒冷な気候に突入します。柏ケ谷長ヲサ遺跡ではこの第Ⅲ期文化層が充実してみられましたが、その中には皮なめしの道具である掻器がふくまれ、寒冷な気候に適応した皮革衣類などが作られたことがうかがえます。第Ⅳ期には石刃を素材としたナイフ形石器が発達、第Ⅴ紀には尖頭器が作られ、第Ⅵ期には日本列島を覆うように細石刃技術が発達し、やがて縄文時代が幕を開けます。

 旧石器時代、礫器などとして手に持たれた武器は、やがて手の延長であるヤリ先に括り付けられ、縄文時代には弓矢という飛び道具に進化しました。戦国時代の日本には鉄砲が伝来し、銃は機関銃になり、ミサイルになり、核兵器になって、人類自らを脅かしています。道具の長い歴史は、人間社会にどのようなことを伝えてくれているのでしょうか。

(参考文献)

堤隆「旧石器の進化」『古墳時代ガイドブック』新泉社2009年

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 石器をつくる技

 ねらいを定め、川原石のハンマーを黒曜石に打ちおろします。「パシッ」と音がして、鋭いカケラが剥がれ落ちます。石器の材料となる剥片です。このカケラをもとに、ナイフ形石器や尖頭器、搔器などさまざまな旧石器の道具が作られます。

 石器作りには、次の三つの方法が知られています。 

 直接打法:敲石の直接的な打撃で素材を剥ぐ剥離法。川原石などの硬質ハンマーを用いる場合、鹿角や木など弾力性をもつ軟質ハンマーを用いる場合があります。

 関節打法:石器にパンチ(タガネ)をあてがい、パンチの上をハンマーで打って間接的に打撃する剥離法。打撃点がぶれずに固定され、剥離の角度が調整しやすい点で、規格性のある石刃を連続的に剥がすのに有効であると製作実験では証明されています。ただ、旧石器遺跡からはパンチの出土例が少なく、本来この技術が存在したかどうかは未知数です。

 押圧剥離:押圧剥離具(鹿角の先端など)を石器に押し付けて力を加え、剥離をおこなう方法。薄く奥行きのある剥片が剥がれます。小型で細長い採石刃を大量に剥離するのには、この方法が最も有効であり、黒曜石など貴重な石材資源を無駄なく有効に活用することができたと考えられます。

 この三つの方法以外に、次のような製作法があります。

 研磨:後期旧石器時代初頭の石斧の刃は、研磨によって磨き込まれています。研磨のための砥石も出土しています。つまり研磨技術そのものはこの時代のはじめから存在しますが、石斧以外で研磨された旧石器はありません。石器以外では、玉類などの装飾品や、花泉遺跡の骨角器の先にも研磨の痕跡がみられます。

 敲打:ペッキングといい、コツコツと叩いて石器の整形をおこなう方法。大分県岩戸遺跡の「コケシ」の愛称がある後期旧石器時代の岩偶は、この方法によって作られています。

 加熱処理:石材に熱をくわえ剝離をしやすくする方法。たとえば頁岩や玉髄などの石は加熱によって、その後の細部加工がスムーズにできることが実験から証明されています。実際、岩手県の縄文前期から晩期の玉髄製石器で加熱処理による剥離がなされたことが、その表面変化から観察されています。ただ、旧石器での処理例はこれまで確認されていません。

 石器に残る物理的痕跡:水面に石を投げこむと、波紋が同心円状にひろがるように、石器も打ち欠いた打撃点を中心にリングという環が広がり、放射状のフィッシャーが走ります。こうした物理的痕跡により石器の打撃点を復元したり、その連続性を観察して、打ち欠きの順序を調べます。また、打撃点周辺の特徴から、打ち欠きに使われた道具は、木などの軟質ハンマーであったか、石などの硬質ハンマーであったかがわかる場合があります。

(参考文献)

堤隆「石をつくる技」『古墳時代ガイドブック』新泉社2009年

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 旧石器人の道具

 考古学者は、石器の製作手順や形態に基づいて石器を分類し、名前を付けます。「技術形態学」と呼ばれる分類法です。一万年以上後の私たちが石器に名前を付けるので、当然当事者である旧石器人の道具の認識とは異なっていることも考えられます。技術形態学的分類による日本列島の旧石器の代表的なものというと、ナイフ形石器・尖頭器・細石刃などです。

 石器の技術形態分類とは別に、どう使われたかという機能分類「機能形態学」もあります。そこでは石器は狩猟具と加工具に大別でき、加工具は工作具と調理具などの分けられます。時代や状況に応じた石器の組み合わせは「石器組成」とか「石器装備」と呼ばれます。

(参考文献)

堤隆「狩猟・採集民の道具」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代その②)

 前回、旧石器時代編を書きましたが、まだ書き足りないので旧石器時代その②編として書いていこうと思います。

 旧石器遺跡を掘る

 エジプトで王家の谷を掘る。イースター島でモアイ像を調べる。藤ノ木古墳で黄金に輝く倉金具を掘る。いずれもロマンに満ちた考古学的行為です。しかし、旧石器遺跡を掘る場合、発見の期待より、まず忍耐力が要求されるでしょう。

 発掘に従事するアルバイトの皆さんには、不可思議な土器や土偶などの出る縄文遺跡の発掘は人気です。しかし、旧石器の発掘現場に回されるとぼやきが始まります。ローム層を削っても、出てくるのは石のカケラと礫ばかりで、つまらないからです。

 ここにこの時代を掘る特質があります。たいていの旧石器遺跡の発掘は一万年以上前の赤土、すなわちローム層を移植ごてなどでていねいに削ることから始まりますが、木や骨などを溶かしやすい酸性土壌のローム層では、有機質遺物が残されているのはまれで、あるのは石器や小さな木炭ばかりです。竪穴住居などが見つかることはほとんどありません。テント上の簡単なイエを作っていたから、その痕跡が残りにくいのでしょう。

 遺跡を掘り進めると、旧石器が一定の範囲からまとまって出土します。これは「石器ブロック」とか「ユニット」とか呼ばれ、意味のある場所と考えられています。石器作りの跡であったり、イエの跡、石器を使用した場所、石器を捨てた場所などさまざまです。

 発掘では、石器の出土位置を正確に記録し、分布の広がり、どの地層から出たか、年代の決め手となる火山灰との関係など、細かい点がチェックされます。たとえば、鹿児島湾北部の姶良カルデラの噴火によって本州全域に降下した姶良Tn火山灰は、二万9000年前という較正年代が出されているため、石器がこれより上に出るとその年代より新しく、下に出ると古いものであることがわかります。

 また、握り拳ほどの大きさの礫がまとまって出土することが多くあります。これは礫群とよばれ、赤く焼け焦げて割れていたり、タール状のものが付着していたりすることから、火にくべられ、調理に使ったという説が有力です。ときおりみられる炭化物も火の使用を裏付ける重要な証拠です。炉とみられる土が焼けた場所もあります。

 オセアニアの先住民などはこうした礫をつかって、肉や魚、芋などの石蒸し料理をしていますが、こうした民族例から同じような使用法が礫群に想定されてい旧石器遺跡の発掘では、泥炭層などから、樹木や植物が発見されることがあります。こうした植物化石は、当時の植生を復元するうえで重要な証拠となります。

 富士山の火山灰などが降下した神奈川県の相模野台地では、後期旧石器時代の二万5000年間に四メートルものローム層が堆積しました。分厚い分、彫り抜くのには膨大な時間がかかりますが、古い順から整然と石器が発見され、旧石器編年には絶好のフィールドです。

(参考文献)

堤隆「旧石器を掘る」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 ヤマトと地方との関係性 

 地方の古墳である埼玉県稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳の刀剣には、その持ち主が代々の大王へ奉仕した事績や、かれらの職制が刻まれています。これにより、五世紀には地方豪族が中央に出仕するシステムが存在していたことが明らかになりました。『日本書紀』には、火(熊本県一帯)・吉備・上毛野・紀(和歌山県)などの地方首長が、朝鮮半島で軍事行動や外交活動をおこなった記事があります。首長たちは地方を治めるとともに、中央に出仕し、ヤマト政権の用務も果たしたと考えられます。古墳時代首長は私たちが思うより広く活動していたのです。

 こうして地方とヤマトの関係性には、次の二つの見方が存在します。ひとつは近畿地方の勢力が政治・経済・外交・軍事のすべての面で圧倒的に優勢であったと考える説、もうひとつはヤマトが主導的でありながらも、有力地方首長も政権を分担する緩やかな連合体であったという考え方です。

 前者の立場からは、古墳時代にヤマト地域の巨大前方後円墳を頂点として、墓の形と大きさで表示された身分制が存在したとする戸出比呂志の「前方後円墳体制説」が提起されています。前方後円墳の分布範囲にみる文化領域、身分制をコントロールする政府、居館や古墳の築造にみる労働徴発権、巨大倉庫群の存在にみる祖税制、刀剣銘文にある職制など、ここに官僚制の萌芽をみとめ、古墳時代を「初期国家」の段階にあるとこの説は規定します。

 一方、後者の立場からの主張もさまざまになされています。たとえば、前方後円墳体制は厳格なものではなく、そのシステムに柔軟に参加・離脱することができたとする考えがあります。小首長らがある理由で大首長を共立し、一時的に前方後円墳が造られるが、その必要が解消すると連合は分解し、前方後円墳も消失するという指摘です。こちらの立場では、政治システムは、大王と首長らの人格的な関係にもとづく「部族連合」の段階にとどまっていたとみなされます。

 経済システムにおいても、中央が生産と流通をコントロールする宝器(威信財)を媒介として富を消費する、未成熟な「威信財経済」の段階にあり、巨大な古墳の造営とそこでの祭祀を見せつけることによって、社会秩序を維持する「神聖王権」のレベルにとどまっていたとする意見があります。すなわち、法と官僚によって支配される「国家」の前段階であったとするのです。

 上記の諸説では、おおむね飛鳥時代(七世紀)以後を「本格国家・成熟国家」とする点では一致します。しかし、古墳時代そのものの評価となると決して一様ではないのです。初期国家を認める立場のなかでも、その開始については三世紀と五世紀説が存在し、都出比呂志が整理した「七五三論争」は、いまだ決着をみていません。

 今回をもって、古墳時代その②編は終了させていただきます。短い間でしたが、読んだくださった方には感謝申し上げます。

(参考文献)

若狭徹「中央と地方そして国家」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年

 

 

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

  古墳時代の首長について

 日本では、弥生時代に本格的な農耕社会が誕生しました。農耕、とくに稲作においては、種まきから収穫にいたるまで、長期にわたる人びとの協業が欠かせません。このとき、時間や労働を管理し、集団の利害調整や富の分配を行う権限が、優れた人物に任されました。その人物は、共同体を代表して他集団との問題を解決し、ときには武力を用います。こうして首長(王)が誕生するのです。彼らは農政や生産を司るとともに、交易によって資源や財物を入手するなど、富を共同体にもたらす役割を担っていました。

 古墳時代になると、前代にみられた地域間の緊張関係が解消され、首長たちの連合が創り出されました。これがヤマト政権です。前方後円墳とそこでの儀礼・祭祀を共有することで連帯感を醸し出し、そのネットワークを通じて鉄などの物資が供給されました。加えて鏡・武器・武具・装身具など威信財の配布等によって、勢力間の調和が保たれたのです。

ヤマト政権のなかでの首長たちの威勢は、基本的に古墳の大きさであらわされました。このため中期までの前方後円墳は巨大化をつづけ、壕や堤を巡らし、多量の埴輪を並べて外観を競っていました。すなわち、前方後円墳は巨大な「みせびらかし」の装置だったのです。

 地域のなかでは、古墳という巨大建造物によって神聖な首長(神聖王)の権威は維持されました。また古墳の造営は技術・知識を進歩させ、土木事業や手工業などの地域経営に利用されました。首長の生前からはじまったとみられる古墳造りや、死後の葬送儀礼への参加は、共同体の社会的結束を高め、同時に富が首長から民衆へ再配分されるシステムとして定着していたと考えられます。おそらく古墳の造営は、共同体に不可欠な事業として、古墳時代社会のサイクルに組み込まれていたのでしょう。このことで、日本列島に5000基もの前方後円墳をはじめ多数の古墳が造られたわけが理解できます。

 ところで副葬品からみると、首長の性格が前期から後期にむけて、司祭→武人→官僚と変化していくと前に述べましたが、前期にはひとつの古墳に男女の兄弟を合わせて葬ることがあり、政治と祭祀を性別によって分担していた可能性が指摘されています。また、前期までは女性首長が珍しくなかったことが人骨研究から判明しています。しかし、中期以降になると前方後円墳の築造地が固定し、古墳群が形成されていくことから、首長の継承法が変化したと考えられます。埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘文にみるように男系継承が優位となり、後期後半には氏族が成立すると考えられています。

(参考文献)

若狭徹「古墳時代の首長像」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年