2023-04-01から1ヶ月間の記事一覧

にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代)

関東ローム層の中から石器が出た! 今回より日本の旧石器時代について書きたいと思います。 昭和24年、桐生で行商を営む考古学青年相沢忠洋によって関東ローム層から採取された黒曜石の石片が、日本旧石器研究の重い扉を押し開きました。戦後最大の考古学的発…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

古墳時代の終焉 350年つづいた古墳時代において、ヤマト王権の力は前期には弱く、後期になって強化されていきますが、そのなかでもある時は強まり、あるときは弱まるという振幅をもっていました。 5世紀には、宋との外交、渡来人の政治への参画によって王権…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

古墳の最後 前方後円墳は西日本では6世紀後半に終焉し、関東でも少し遅れて姿を消します。奈良盆地では五条野丸山古墳(140m)を最後にして築造を停止します。時は、中国隋にならって新国家体制をめざした推古天皇・厩戸皇子(聖徳太子)・蘇我馬子の治世。…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

海民の考古学 日本列島は四方を海に囲まれ、沿岸部の人びとは漁民として生きてきました。ここでは古墳時代の人びとの海(山)とのかかわりを考えてみます。 船 古墳時代の船には、丸木舟と、板材を組み合わせた準構造線がありました。後者の部材は低湿地遺跡…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

寒冷化と神への祈り 環境変化 福井県水月湖の堆積物からみた対岸の中国から飛来する土壌の研究、鹿児島県屋久島に自生する屋久杉の炭素同位体比からみた気温変化の研究、群馬県尾瀬ヶ原や各地の遺跡の花粉を調査した研究などの成果によると、弥生時代後期か…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

ムラ人の暮らしぶり 前回ではムラの姿を概観しましたが、今回はムラ人の暮らしぶりをみてみたいと思うます。 家のつくり 彼らの基本的な住まいは半地下式の竪穴建物で、屋根はテント型の草葺き屋根でした。東日本で火災にあった建物を調査すると、二層の草葺…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

古墳時代のムラ 古墳時代になると首長の館はムラから独立しました。では、一般のムラとは、いったいどのようなものだったのでしょうか。従来、古代のムラには竪穴建物が存在し、西日本ではこれに加えて掘立柱建物が知られていました。ところが、群馬県地域の…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

渡来技術と手工業について 日本最古の歴史書の一つ『日本書紀』には、古墳時代ごろに朝鮮半島から、王族や学者などの知識層や、「今来才伎」とよばれる技術者群がやってきたことが記されています。これを契機として、新技術が堰を切ったように流れ込み、新た…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

東アジアとの外交について 「楽浪海中倭人あり」。これは中国の史書『漢書』地理志に書かれた日本の地理情報です。当時の日本は「倭」と呼ばれ、中国の前漢が今の北朝鮮辺りに置いた楽浪郡(紀元前108年設置)のはるか海上にあると認識されていたのです。し…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

埴輪とは 埴輪といえば、人や動物、家などをかたどった形象埴輪がイメージされます。しかし、これらは埴輪の中でも後発組で、最初につくられたのは円筒埴輪でした。 円筒埴輪 円筒埴輪は文字どおり土管のような埴輪で、墳丘や周堤帯などをめぐって列状に並べ…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

巨大前方後円墳の移り変わり② 中期になると、大阪平野に古市古墳群(羽曳野市ほか)と百舌鳥古墳群(堺市)が出現します。前方後円墳は、この時期に最も規模が大きくなります。両古墳群の時期は並行しており、二つの勢力が併存して、交互に大王を出した可能…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

巨大前方後円墳の移り変わり① 考古学者は、墳丘長が200m以上の前方後円墳を「巨大前方後円墳」とよびます。そこに葬られたのは、大王やヤマト地域の主要豪族、ならびに各地の大豪族たちでした。文化的中心地であったヤマト地域において、巨大前方後円墳がど…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

古墳の創出③ 古墳の主の神格化 今までみてきた遺骸の葬り方で弥生時代の墳丘墓と比べてもっとも大きく異なっているのは、棺の外側に膨大な品々を配置する点です。このことは、箸墓に葬られた人物の性格をさらに詳しくさぐるうえでも重要です。 そのための最…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

古墳の創出② 箸墓の内部 箸墓は、宮内庁が皇族の墓と認定して管理しているため、天皇陵と同様に、学術的な発掘調査の道は閉ざされています。そこで、箸墓と近い時期のほかの大きな古墳の例から、その内部を類推してみることにします。 まず、主の遺骸は、後…

古墳の創出① 箸墓登場 古墳についてもう少し詳しく書いてみたいと思います。 二世紀の中ごろ、奈良県桜井市の纏向遺跡群の南の端に、それまでにない威容を誇る超大型の構造物が現れました。箸墓(または箸中山)と呼ばれるこの巨大前方後円墳は、五段に築か…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

副葬品について 盗掘されていない古墳の埋蔵施設からは、様々の遺物が出土します。死者に添えられたこれらの品々を副葬品と呼びます。棺の中に納められた品、棺の外の墓室の中に置かれた物、室外(槨外)に置かれた遺物では、それぞれ性格が異なりますが、総…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

古墳の形について 古墳には前方後円墳のほかにも多様な形がありました。葬られた人の立場、階層、時期的な流行、地方色などをつよく反映していたと考えられます。 前方後円墳 3世紀中ごろに成立し、5世紀には岩手県から鹿児島県まで広まり、7世紀の初めに消…

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

古墳時代の概要 「有史」という言葉を辞典で調べてみると、文字による記録が存在すること。または、文字資料の上で歴史認識の対象となっている時代に属することと、書かれています。 わが国において、古代(有史以前)というのは、人の最古のたしかな足跡が…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

後期後半(1世紀~3世紀)古墳時代への道⑤ 倭国の乱の原因ー鉄以外 倭人が鉄を国産していたとは考えられない以上、朝鮮半島島南部から鉄素材を輸入することによって倭国内の需要を満たしていたという前提の上で考えてみたいと思います。 鉄の奪取を目的とし…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

後期後半(1世紀~3世紀)古墳時代への道④ 倭国の乱の原因ー鉄であると仮説した場合 弥生時代に行われたと考えられる数多くの戦いのなかで、後世まで名前が伝わっている戦いはわずか一つしかないありません。「倭国乱」であります。2世紀後半に行われたと考…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

弥生後期(1世紀~3世紀)古墳時代への道③ 大人層の出現ー吉野ケ里遺跡 直線的な道路や直交する道路によって区画されてはいたものの、階層によって生活の場を異にするむらを造っていたと考えられるのが佐賀県吉野ケ里遺跡であります。 3世紀の倭国を描いた「…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

弥生後期(1世紀~3世紀)古墳時代への道② 平和な農村の象徴ー静岡・登呂遺跡 登呂遺跡ほど、いろいろな意味で「日本で初めて」という冠がつく遺跡はありません。初めて水田の跡が見つかった遺跡であることは有名だし、ネズミ返し、琴、機織具など、農耕生活…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

弥生後期(1世紀~3世紀)古墳時代への道① 奴国の中心ー比恵・那珂遺跡 多くの人は弥生後期の遺跡といえば、登呂遺跡や吉野ケ里遺跡をイメージすると思いますが、当時の先進地である玄界灘沿岸地域、特に金属器やガラスの一大産地でもあり、さらに国内外の交…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)④ 水田稲作をやめた人びとー青森ー垂柳遺跡 砂沢遺跡の人びとが十数年続けた水田稲作をやめてから、しばらくの間は青森県内で水田稲作が行われた形跡が認められませんが、前3世紀になると再び水田稲作が始まります…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)③ くにの成立~三雲遺跡(伊都国) 今回は、玄界灘沿岸地域の有力者の中でもっとも多くの大型の前漢境を副葬され、かつ段丘や区画溝などをもつ墓に葬られた伊都国の有力者の墓である、糸島市三雲南小路遺跡を取り上…

にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)② くにの成立ー原の辻遺跡(一支国) 「くに」の大きさは江戸時代まであった筑前国や河内国を構成する群の一つか半分、三分の一ほどで、たくさんのむらから成り立っていました。 前3世紀になると遺跡全体を取り囲む…