にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生後期(1世紀~3世紀)古墳時代への道②

 平和な農村の象徴ー静岡・登呂遺跡 

 登呂遺跡ほど、いろいろな意味で「日本で初めて」という冠がつく遺跡はありません。初めて水田の跡が見つかった遺跡であることは有名だし、ネズミ返し、琴、機織具など、農耕生活に必要な多くの木製用具が初めて見つかった遺跡でもあります。実態は、比恵・那珂遺跡群でみたまち的な状況と異なり、まさに巨大な弥生の農村であります。 

 敗戦にうちひしがれ平和を求めた当時の日本人の前に明らかにされた2000年前の祖先の暮らしは、戦いのない平和な農村に相応しいものでした。武器もない、戦いのあともない、戦いで死んだと思われる人もいない農村は、水田稲作を行うための農耕具にあふれた豊かな生活を彷彿させるものでした。

 登呂遺跡が見つかったのは1943年(昭和18年)、戦闘機用のプロペラ工場を造るために、水田の土を抜き取る工事を行っていた時であります。この際にも調査が行われていますが、本格的な調査は1947(昭和22)~1950(昭和25)年にかけて行われ、その成果は、『登呂ー本編、前編』として1954年に毎日新聞社から刊行されています。

 『登呂』には、12件の竪穴系平地住居に、2棟の高床式倉庫、むらの西側に広がる一次林たる防風林、8ヘクタールにも及ぶ大区画水田が、同時期に存在した弥生後期のむらの姿として描かれています。何しろ水田が初めて見つかった遺跡で、居住域も一緒に見つかっていたので、弥生の典型的な農村として人々の脳裏に刻まれました。

 後に再調査が行われていますが、その結果驚いたことは、私たちが教科書で見た住居と水田が同じ時期のものではなかったことです。登呂遺跡は、安部川と藁科川が造った扇状地である静清平野の扇端部に立地し、両河川が造った自然堤防上の微高地に占地しています。

 平野に弥生人が現れるのは前3世紀ごろ(中期中葉)のことです。登呂遺跡が位置する静清平野では、それまで丘陵部に居住していた人びとが、前3世紀になって平野部に移り始めます。前2世紀(中葉)には生活の中心は平野部に移り、居住域と方形周溝墓からなる墓域がセットで見つかる大型化した遺跡が現れます(岡村2006)。

 登呂遺跡は古墳時代中期まで続く遺跡ですが、大きく四つの時期に分けられます。遺跡に遺構が現れるのは後1世紀(後期前葉:登呂1期)からで、まず居住域と水田域が出現します。

 登呂Ⅱ期(後期中葉)になると居住域と水田域が存在しますが、この時期のむらは冠水が繰り返されたあと、洪水で壊滅してしまいます。教科書に載っている住居のほとんどがこの時期のものです。

 登呂Ⅲ期(後期紅葉)には水田が再び造られ、居住域も認められるが、前段階よりも大きな洪水によって再び壊滅します。教科書に載っている杭や矢板で護岸された水田のほとんどは、この時期のものです。

 登呂Ⅳ期(弥生週末以降)にふたたび水田が造られるが、もはや居住域が造られることはなく、平野部のほとんどが一面の水田になったと考えられています。

 注目すべきは、登呂遺跡から200m上流にある鷹の道遺跡の住居の軸や水田区画と水路の走行が、登呂の水田の軸と一致していることです。つまり登呂の居住域が造られなくなるⅣ期には、鷹の道遺跡の水田地区になっている可能性があり、このことは集落の概念に再考を促すものとして注目されています。

 弥生後期の遺跡には、比恵・那珂遺跡のように国内外の流通ネットワークの拠点として、直線的な道路を軸として直行する道路によって区画された空間に、建物群と工房群などを計画的に配置した「くに」の中心たる遺跡と、登呂遺跡のように水田稲作を行う「弥生の農村」といえる遺跡など、機能と性格に合わせて多様なものがあったことがわかります。少なくとも弥生後期の集落は、登呂遺跡のような農村というイメージだけで語ることはできません。

(参考文献)

藤尾慎一郎「平和な農村の象徴」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年