にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生中期後半~中期末(前2世紀~前1世紀)④

 

 水田稲作をやめた人びとー青森ー垂柳遺跡

 砂沢遺跡の人びとが十数年続けた水田稲作をやめてから、しばらくの間は青森県内で水田稲作が行われた形跡が認められませんが、前3世紀になると再び水田稲作が始まります。田舎館村にある垂柳です。しかし垂柳遺跡の人びとは、およそ300年にわたって水田稲作を続けましたが、前1世紀に起きた大洪水によって水田が埋没したのを契機に水田稲作を止めてしまいます。これを最後に東北北部からは、水田稲作を行う人びとは姿を消してしまいます。この地で再び農業が始まる古代まで採取狩猟文化の世界となります。一度始めた水田稲作を途中で完全にやめてしまうのは、東北北部の人びとだけです。

 ところで垂柳は洪水が原因で廃絶されましたが、洪水にあっていない別の場所で続けるのではなく、青森全体で水田稲作を行う人びとは姿を消してしまいます。原因は寒冷化などといわれていますが、それだけでこうした現象が起こるのでしょうか。

 寒冷化説への疑問として、同じ東北でも仙台平野では水田稲作が続いています。たしかに仙台は青森より南にあるので、寒冷化の程度は青森に比べれば暖かかったかもしれません。しかし、対馬暖流が沖合を流れる日本海側の弘前地域と、山背が吹くと冷涼な夏になって不作になりやすい太平洋側の仙台では、寒冷化の程度は同じという研究結果もあります。冬の寒さが稲作に与える影響よりも、イネの生育期である夏に気温が上がらないことのほうが、イネには重大な影響を与えます。夏の気温という点に関してみても、寒冷化説は仙台のほうがより当てはまるといえるだけに、青森で水田稲作が行われなくなる原因を寒冷化に求めることは難しいです。別の要因が考えられます。

 藤尾氏は、須田稲作を行う目的が違っていたことに、その原因があるのではないかと考えています。朝鮮半島からの青銅器文化にとって水田稲作とは、銅剣や鏡などの青銅器を至高の祭器と崇め、社会統合の象徴とする社会を支える生産基盤でありました。その社会の実現を目指して水田稲作をいったんスタートしてしまうと、拡大再生産の名の元にこの動きを止めることはできません。水田稲作は目的ではなく、そうした社会を造り維持していく手段だったのです。

 環濠集落を造った人々は、水田稲作が目的ではなく手段であることを知っていたから、何があっても水田稲作を止めることはなかったのです。一度始めたらやめられない水田稲作。ゆえに水田稲作を始めるためには覚悟が必要です。退路を断ち、もう後戻りできないという覚悟で取り組まなければなりません。一方、青森の人びとは水田稲作を始めるにあたって、もとから自分たちが持っているものでできるだけまかなおうとという基本姿勢を貫いています。剥片石器の石材を得るための供給体制は、縄文後・晩期以来の仕組みを踏襲、退路を断たずに水田稲作を始めました。もし水田稲作がうまくいかなくても元に戻れるように安全装置を利かしたままです。

 退路を断った仙台と、いつでも戻れる青森。この違いが何か困難に直面した際に対応の違いとなって現れたのではないでしょうか。青森の人びとにとって、コメとは単なる食料の一つでしかなかったのかもしれません。手段ではなくコメを得ること自体が目的だった可能性があります。

(参考文献)

藤尾慎一郎「水田稲作を止めた人びと」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年