にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生前期末~中期後半②(前4世紀~前3世紀)

 水田稲作を採用しなかった人びと

 続縄文時代

 前4世紀前葉には青森県まで達した水田稲作が、津軽海峡を渡ることはありませんでした。同様に九州南部、鹿児島まで達した水田稲作も、種子島屋久島へと渡ることはありませんでした。以前は水田稲作には不向きな北海道の気候などを根拠にして、コメを作りたかったけれども作ることができなかったと説明されてきました。しかし現在はコメを作る必要がなかったので広まらなかったと考えられるようになっています。

 続縄文文化は、本州~九州において縄文文化のあとに弥生文化が成立したように、北海道において縄文文化のあとに成立した新しい文化として設定されています(山内1933)。続縄文文化の人びとは、縄文文化に比べると漁撈活動により重点を置いた生活を送っていました。地の利を生かして漁撈活動に専念するほうが、稲の生育に厳しい環境の北海道で稲作を行うよりも、はるかに必要なものを効果的に入手することができました(石川2010)。また縄文文化には、同じ時期の東日本や西日本の弥生文化には見ることのできない副葬品をもつ有力者の存在が確認されているので、階層分化が進んでいた可能性があります。 

 伊達市有珠モリシ遺跡には沖縄近海でしか取れない南海産の貝で作った腕輪や貝製品を副葬された人びとがいました。噴火湾に面した貝塚から見つかった道具類は、カジキマグロやオヒョウなどの大型魚類、イルカ・クジラ・アザラシなどの海獣類を捕獲するために発達したしたものです。高度に発達した離頭銛や組み合わせ式の釣針などの骨角器、大型の魚類を獲る疑似餌として使われた魚型石器などは道南を中心に分布する特徴的な漁具です。

 このように海洋漁撈に傾斜したことを示す高度に発達した道具類は、続縄文文化前期を特徴付けるものであり恵山文化と呼ばれています。東北北部で水田稲作がおこなわれなくなった前1世紀以降に、北海道から南下した文化こそ、この恵山文化です。

(参考文献)

藤尾慎一郎「続縄文文化」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年