にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生早期後半~前期後半①(前9世紀後半~前5世紀)

 農耕社会の成立

 前9世紀後半になると、玄界灘沿岸地域には様々な変化が起こります。環濠集落の出現、有力者の登場、そして戦いの始まり。これらはいわゆる農耕社会が成立して、社会が質的に変化したことを示すと考えられている考古学的な指標であります。

 まず、中国に起源をもつ集落の一形態である環濠集落ですが、住居群の周りに豪や土偶、柵などをめぐらすもので、その大きさは長径が100m前後から数kmに達するものまであります。日本最古の環濠集落は、3世紀に奴国の中心となる比恵・那珂遺跡群の南西部に、本遺跡群最初のむらとして前9世紀後半に出現します。

 ただ、この遺跡は150年あまりで廃絶されています。その原因の一つが条件の悪い水田です。弥生人には制御できない大きな河川である那珂川が近接して流れているために、常に洪水の危険にさらされていたことや、取排水設備が十分でない水田であったことから、この環濠集落は生産性の低い稲作を行う生産基盤の弱い小規模な集落であったと考えられています(田崎1998)。

 次に有力者の登場ですが、那珂遺跡から上流に1㎞ほど上がったところにある板付遺跡でも、前9世紀に内側と外側を二重にめぐらせた環濠集落が成立します。板付遺跡で注目すべきは、すでに階層差が生まれていたと考えられることです。子供の墓が複数の地区で見つかっていますが、玉を副葬された子供の墓はむらの中心に近い内壕の内側に作られているのに対して、何も副葬されていない子供の墓は、村の中心から離れた内壕と外壕の中間に造られていました。むらの中心からの距離と副葬品の有無が一致していることがわかりました。このような水田稲作が始まって100年ほどたった福岡平野では、有力者とその子供がすでに一般の人びととは区別されて葬られるようになっていることから、階層差や世襲制が存在し身分が固定化していたことがわかります。

 さらに前9世紀後半には戦いが始まっていたこともわかっています。戦いとは集団と集団との抗争を指しますが、縄文時代にはなかった武器が出現するとともに、武器によって殺されたことがわかる人の墓が見つかっていることから、戦いが始まっていたことがわかります。糸島市新町遺跡では、長さ16cmもある柳の葉のような形をした石の矢じりが、左大腿骨に突き刺さった男性の遺体が葬られていました。日本最古の戦死者です。

 戦いは、もともと朝鮮半島南部において水田稲作を行う上で必要な水や土地をめぐる争いを、政治的に解決するための手段として生み出されたものです。朝鮮半島南部の水田稲作民が、玄界灘沿岸地域に渡ってきた際、水田稲作のパッケージの中に含まれていたことは間違いありません。

(参考文献)

藤尾慎一郎「農耕社会の成立」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年