にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 炭素14年代測定法の衝撃

 前回の縄文時代編では、ブログを20回にわたってアップしましたが、内容が少し学術的で硬い文章になってしまいましたので、あまりアクセスされなかったようです。そこで、今回の弥生時代編では解りやすく面白い文章を心掛けて書いてみたいと思います。

 炭素の同位体の中で炭素12と炭素13は時間がたっても安定していて性質が変わらないので安定同位体といいますが、炭素14だけは放射線を出しながら窒素14に変わっていく(放射壊変)のため放射性炭素とよばれています。壊変する速度は一定していることから、この性質を利用して年代を測定する方法が炭素14年代測定法です。

 炭素14は、およそ5730±40年で濃度が半分になるので、遺跡から出土する木炭や炭化したコメに含まれる炭素14の濃度を測れば、濃度が減り始めてから何年ぐらいたっているのかがわかります。つまり何年前のものかを知ることができます。

 この年代測定法により、2010年日本考古学界に衝撃が走りました。それは水田稲作の開始年代を500年もさかのぼらせた衝撃であります。弥生時代を特徴づけるものとして農耕(稲作)が始まったことが挙げられますが、従来の学説では、農耕文化が起こった時期が「紀元前4世紀ごろ」とされていましたが、「紀元前10世紀ごろ」に約500年古くなっていることです。

 従来の弥生開始年代である前5~前4世紀の北東アジア世界はどういう時代だったかといいますと、前494年に山東半島付近にあった趙という国が滅亡したり、今の北京付近にあった燕という国が現在の中国遼寧省にあたる遼東地域に進出し朝鮮半島西北部と接するようになるなど、前5~前4世紀の北東アジア世界は、初めて古代国家が登場したり滅亡したりするまさに戦国時代のまっただ中にありました。こうした大陸における戦乱期の混乱を避けた諸民族の政治的移動や、弥生の小海退に伴う寒冷化によって遼東地域の人びとが温かい土地を求めて南下して朝鮮半島に及びます。すると朝鮮半島の人たちが玉突きで押し出されるように海を渡り、九州北部に水田稲作や鉄器を伝えたとこれまでは説明されてきました。

 この説明から見えてくるのは、遼東地域における古代国家の興亡や寒冷化が引き金になって中国の人びとが移動して朝鮮半島に達し、その影響で朝鮮半島の人びとは結果的に海を渡ることになるという、主人公はあくまでも中国の人びとであって、朝鮮半島の人びとはそのあおりを受けたにすぎないことになります。しかし水田稲作の始まりが前10世紀までさかのぼると、北東アジア世界はまったく異なる世界になります。

 朝鮮半島水田稲作が始まるのは紀元前11世紀のおわり頃、青銅器時代前期後半にあたります。稲作は灌漑施設を持つ水田で行われて、石包丁、扁平片刃石斧や柱状片刃石斧などの大陸系磨製石器を伴います。その起源は前2000年期後半の山東半島煙台地区や膠東半島に見られた湧水型水田に求められており、遼東半島を経由して朝鮮半島に伝えられたものと考えられています(宮本一夫2009)。

 朝鮮半島青銅器時代(早期)はすでに前15~前13世紀に始まっているので、青銅器が副葬されるようになる前期後葉までの約500年で朝鮮半島では社会の階層化がかなり進んだと考えられています。

 九州北部で水田稲作が始まった年代が前5~前4世紀から前10世紀に約500年古くなると、朝鮮半島青銅器時代人の果たした役割が実質的に大きかったことが予想されるようになりました。もちろん、九州北部に直接水田稲作を伝えた人たちが朝鮮半島南部の出身者であるという位置づけはこれまでと変わりませんが、彼らがなぜ渡海するように至ったのか、その原因が大きく変わることになります。すなわち朝鮮半島南部の青銅器社会自体の発展に伴って発生した社会矛盾(社会の階層化)を解消するために青銅器時代人が自ら海を渡ったという説です。これまでのように亡命中国人に圧迫されて仕方なく渡海したのではなく青銅器時代人が自らの意思で渡海したことになり、青銅器時代人が果たした役割がより主体的になります。

 そこには、中国における古代国家間の戦争による大量の難民流入によってはじき出されるように仕方なく故郷をあとにしなければならなくなった朝鮮半島の人々の姿はもはや見られません。炭素14年代測定法の衝撃はこのことを示しています。

 (参考文献)

 藤尾慎一郎「前10世紀に水田稲作を伝えたのは誰か」『新弥生時代

       吉川弘文館2011年