にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 弥生後期(1世紀~3世紀)古墳時代への道③

 大人層の出現ー吉野ケ里遺跡

 直線的な道路や直交する道路によって区画されてはいたものの、階層によって生活の場を異にするむらを造っていたと考えられるのが佐賀県吉野ケ里遺跡であります。

 3世紀の倭国を描いた「魏書」東夷伝倭人の条には、「大人)、「下戸」、「生口」という三つの階層が出てきます。大人は倭国だけでなく、鮮卑・扶余・高句麗などにもいたと記されている、いわゆる支配層です。

  「下戸のものが道で大人に会うと、後ずさりして草の中に入り、言葉を伝えたり説明したりするときには、うずくまったりひざまずいたりして、両手を地につき、大人に対する恭敬を表す」とあります(小南2003)。生口はいわゆる戦争奴隷です。

 吉野ヶ里歴史公園では、次のような考えにもとづきながら、大人と下戸を性格づけて遺跡公園の復元に生かしています。弥生時代の階層・職能・身分については、国の支配者として行政的な運営をになっていたと考えられる(大人」、一般的な身分である「下戸」、もっとも下位の階層である「生口」に分類されます。

 吉野ヶ里歴史公園では、南内郭を大人層の居住区と考え、世俗的な政治支配を担う最高政治権者である「王」と、統治機構を分担して担う「クニ」の支配層が暮らしていたと推定し、その前提で当時の「ムラ」を復元しています。大人層は、一般的な農業労働には従事せず、その監督や行政的活動を主たる仕事としていたという設定です。

 この大人層がハレの場で着る服装を復元したのが布目準郎です。大人層の服の素材は絹であり、吉野ケ里からは粗い平織の透けた絹が出土しています。弥生人は家蚕の絹を手織りにしていたと考えられますが、これを日本茜の根で染色して、上着として着ていました。帯も絹製で、黄色はくちなし、赤色は茜、紫はイボニシやアカニシなど巻貝のパープル腺から摘出される液を用いていました。髪飾りにもこの貝紫を使用していました。アクセサリーは勾玉は糸魚川のヒスイ、管玉はガラス製を着飾っていました。

 弥生人の衣食住について話したいと思います。

 衣

 倭人の条には、次のような描写があります。

 「男は皆、かぶりものをつけず、木緜で頭をまき、衣は横幅の布を用いて、ただ結んでいるだけで、ほとんど縫ってはいない。婦人は・・・・衣は単衣のように作り、中央に穴をあけて頭を貫いてこれを衣る」

 吉野ケ里遺跡で見つかった2世紀の甕棺に葬られていた男性の髪は、埴輪の男のように髪を両側で束ねていました。しかし弥生人が残した造形物にはミズラをしているものはなく、頭の中央に前後に長いかたまりをつくって、髷としたものがみられる程度であります。

 頭に巻いた木緜ですが、木綿ではなく、コウゾやカジなどの樹皮をはいで、蒸したり水に浸したりして、いらない部分を取り除いた繊維を指します。倭人の男は布ではなく、樹皮の繊維をまいていたことになります。

 衣装の生地は、出土資料からみると大麻が圧倒的に多かったというのは、布目準郎です。大麻を使った貫頭衣を着ていたと考える人が多いでしょうが、甕棺墓からは腕や足の骨に布がついたまま見つかることも多いので、長袖や長裾の服があったことは確実です。実際、吉野ケ里遺跡では二つの布を縫い合わせたものが見つかっているので、身ごろと袖が直交するようにつないであったと考えられています。

 これまで述べてきたのは一般の人びと(下戸)の服ですが、吉野ケ里遺跡からは何種類もの絹が見つかっています。前3世紀の墳丘墓に葬られていた甕棺には絹で巻かれた銅剣が副葬されていたこともわかっています。

 布目を鑑定したところ、布の大多数は目が透けていて下の衣の色・文様や肌が透けて見える上等の透目平絹で、目の詰まった透目平絹もあったとのことであります。しかも絹は、貝紫と茜で染めたものであることがわかりました。縦糸を茜で、横糸を貝紫で染め分けたものまでありました。こうした微妙な色の違いのある絹を織った布でつくった衣装を着ていた人びとがいたことは、驚く限りです。

 木靴もすでに登場していましたが、基本的には素足であったことが倭人の条に記されています。

 食

 倭人の条に出てくる生食とは、野菜や魚を生で食べていたことを指します。弥生人が体内に寄生虫を飼っていたことは朝日遺跡のところで述べましたが、倭人の条の記述と一致します。中国では戦国から漢代のかけて広まるとされる箸はまだなく、手づかみで食べていたことが記されています。

 食べ物は高杯に盛られ共食が行われ(共用器)、各自が小型の高杯(銘々器)にとって食べていました。まだAさん専属の高杯(属人器)といった区分のないころの話です。銘々器は漢代にはあったと考えられているから、遅くとも弥生後期には使われていたと考えられているが、弥生中期以前に存在していたのかどうかわかりません。

 火災に遭った竪穴住居からは運び出せずに焼け残った土器が見つかることがあります。大阪市高槻市の古曾部⁼柴谷遺跡の12号住居からは45個の土器が見つかりました。このうちの銘々器と考えられる小ぶりの高杯が5個含まれていたので、この家には5人が住んでいたと考えられています。

 住

 弥生時代の建物といえば、竪穴住居、掘立柱建物、高床建物の3つです。竪穴は寒さと風を防ぐ北方系の建物です。1.5~2.0mぐらいの穴を掘り、梯子をつけ、屋根に開けた入口から出入りします。以下には炉と屋根を支える柱の穴があり、ワラの蓆などを敷いて暮らしていました。屋根には葦やヨシなどの茎を葺き、中にはその上に土を乗せたものもあります。冬は暖かいので、燃料材を十分に確保できない時代に特徴的な建物です。

 掘立柱建物は、地面を掘り下げずに柱穴を掘って、下端部を穴に埋めて立てる柱(掘立柱)で屋根を支える建物です。土間を床にする場合と、数10㎝から1m前後の高さの木の床をつけるものもあります。

 人の背丈を超えるほどの高さに木の床をつけるものが高床建物です。高いので上がるには梯子か階段が必要です。倉庫として使う場合には重量があるので、総柱(相対する側柱の交点にもすべて柱を立てる)となります。

 銅鐸や弥生土器には建物の絵を描いたものがあります。建物を横から見た絵には、屋根が台形と逆台形の二つがあることがわかります。後者では棟が大きく張り出すことになるので、これを支える柱がもう一本、必要になります。これが伊勢神宮正殿にもある棟持柱であります。

 紀元前52年の年輪年代が出たことで有名な大阪府池上・曽根遺跡の祭殿は、柱11本×2本+棟持柱をもつ19.2×6.9mの

巨大なものでありました。

(参考文献)

藤尾慎一郎「大人層の出現)『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年