にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

 後期後半(1世紀~3世紀)古墳時代への道④

 倭国の乱の原因ー鉄であると仮説した場合

 弥生時代に行われたと考えられる数多くの戦いのなかで、後世まで名前が伝わっている戦いはわずか一つしかないありません。「倭国乱」であります。2世紀後半に行われたと考えられているこの戦いを収束させる方法として卑弥呼の共立があるわけで、古墳時代のはじまりに大きな影響を与えた戦いです。

 倭国乱が起こった原因は何でしょうか。1970年以降、論争の中心になったのが、鉄の入手をめぐる九州北部と岡山・近畿との争いでありました。

 当時、鉄の生産地であった朝鮮半島島南部の弁辰地域から鉄を輸入する権利や、鉄をはこんでくる輸送集団の掌握、輸入した鉄の配分と列島内の流通など、すべてを掌握していた玄界灘沿岸諸国から、吉備・近畿諸国が取って代わるための戦いが倭国乱であると考える仮説です。

 倭国乱に勝利することで吉備・近畿諸国は玄界灘沿岸諸国に取って代わることに成功します。特にクワやスキなどの木製農具の刃先に装着する鉄刃農具を豊富に作るために必要な鉄を確保して使用することによって、生産力が増加します。そのことによって、近畿が名実ともに古墳時代の政治権力の中心になったと考える図式であります。

 しかしこの仮説には弱点があります。倭国乱が終わった3世紀になっても、大阪や奈良などの近畿中央部に鉄器が普及していたことを示す具体的な証拠が乏しいのです。鉄器の出土量は3世紀になっても相変わらず圧倒的に九州北部のほうが多いのです。

 弥生後期の近畿中央部に鉄器はよく見えないが、近畿中央部が古墳時代の政治権力の中心になっている以上、弥生後期に鉄器の普及を想定するこのような学説は「見えざる鉄器」説と呼ばれ、近畿の研究者を中心に支持されてきました。

 しかし弥生後期の近畿中央部にも鉄器は豊富にあったけれども、見つからない理由を説明してきたリサイクル説や埋蔵中に腐ってしまったという銹化説はいずれも否定されています。リサイクルが可能な防湿設備を備えたⅠ類の鍛冶炉は、3世紀になってようやく数基確認されるにすぎません。また鉄は錆びると安定するので溶けてなくなってしまうことはありません。現在、近畿中央部で出土している鉄器の量を素直に解釈すれば、倭国乱の結果、近畿に鉄器が普及するようになったとはとても言えないという見解が優勢であります(村上1998)。

 しかし、近畿中央部と対照的なのが近畿北部の日本海沿岸です。リサイクル可能な鍛冶炉があり、前2世紀以降に舶載鉄器をまねたさまざまな鉄器を作っているので、近畿中央部よりも鉄器が普及していた可能性があります。日本海沿岸を西に進めば大陸に近いという地の利を活かして、舶載品や鉄素材とともに製作技術を入手できる有利な環境にあったのでしょう。

 もちろん2世紀後半の倭国乱以降も、九州北部では依然としてクワ先やスキ先といった鉄刃農具をはじめとした数多くの種類の鉄器があらゆる階層に広く行き渡っているため、構成員の社会的地位によって鉄器の保有度に差がみられるということはありません。皆等しく保有しているのであります(野島2009)。

 九州中部の鉄器は九州北部に比べると種類が限られ、ヤリガンナや摘鎌のような小型鉄器を中心とします。鉄刃農具は社会的地位によって保有する数が限定されます。だが、矢じりだけはあらゆる階層に行き渡っているのが特徴です。

 山陽ではさらに種類と数が限定されます。鉄刃農具はきわめて例外的に大型住居から見つかる程度で、矢じりとヤリガンナが後期中ごろになってみられる程度です。

 九州北部以外で豊かな鉄器をもつのは山陰です。種類も最も豊富で、かつ、板状鉄製品の破片も多数見つかっています。実際に鍛冶を行ったとみられる竪穴が数多く見つかっています。

 このように倭国乱以前の瀬戸内中部以東、および近畿の鉄事情は惨憺たるものでした。倭人の条に記されているように、3世紀には鉄を含む大陸から舶載される稀少物資は一大卒による統制下にはいっていたでしょうが、九州北部における流通量はそのままで、さらに瀬戸内や近畿、東国方面にも鉄が広まるようになったのではないでしょうか。後期後葉以降の中部・北関東に加耶系の鉄剣が出土するようになることは、何らかの政治的意図の存在をうかがわせます。またⅣ類のような知面を掘りくぼめない簡便な炉が近畿中央部や東日本に多く見つかり始めていることも、簡便な道具による加工が可能な弁辰の軟鋼素材の普及が背景にあるのではないでしょうか(池淵2004)。つまり倭国乱以降、流通機構の整備とそれを促す汎西日本規模の政治的意図が、鉄器が乏しかった地域にも鉄器の普及を促すようになったと考えられます。

 鉄刃農具の普及にともなう生産力の発達を増大して古墳時代の成立を説明することができないとすれば、近畿中央部に3世紀以降、政治・祭祀的な中心が成立した別の理由を考えなければなりません。現在の学会は古墳時代の始まりを、経済的な転換でなく、政治・祭祀的な転換として描く傾向が強いです。

(参考文献)

藤尾慎一郎「見えざる鉄器と倭国乱」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年