にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 古墳の創出② 

 箸墓の内部

 箸墓は、宮内庁が皇族の墓と認定して管理しているため、天皇陵と同様に、学術的な発掘調査の道は閉ざされています。そこで、箸墓と近い時期のほかの大きな古墳の例から、その内部を類推してみることにします。

 まず、主の遺骸は、後円部の土の中の長さが4~5mにもなる木の棺の中に横たえられています。衣服などは残っていないためわかりません。頭のまわりには1~数面の鏡が置かれています。多くは布につつまれたり、巾着に入れられたりしていたようです。胸元あたりを中心に、玉飾りや玉製品があります。胴体の横には、1~数本の刀や剣が置かれています。抜き身ではなく、布につつまれたり、鞘に収められたりしています。鉄の道具も少しあります。このような棺の中身は、弥生時代の後期に出てきていた墳丘墓の複製品とは、やや点数が増えているほかは、ほとんど変わりがありません。4世紀中ほどになると、大型の前方後円墳などでは、棺は石でつくられるようになります。

 遺骸や副葬品を入れた木や石の棺は、やはり土の中に石を組み上げてつくった長さ5~6m、幅1m前後、深さ1~2メートル程度の部屋(竪穴式石室)の中に収められています。注目すべきは、棺と石室の壁の間に置かれた、おびただしい品物です。まずは鏡。棺内のものが、紀元後1~2世紀の中国製の古い鏡であることが多いのに対して、棺外の鏡は、3世紀に中国か日本列島のどちらかでつくられた三角縁神獣鏡であることが多く、数も大量です。奈良県天理市の黒塚古墳では、33面もの三角縁神獣鏡が棺外に並べられていました。ただし、4世紀も末になると、ここに多量の鏡を並べる例はまれになってきます。

 棺の側面と石室の壁との間には、多量の刀剣も置かれています。4世紀までは短剣やヤリが多いが、5世紀になると長い刀や矛が増えてきます。矢の束や弓もしばしばそれらに伴います。棺の前後と石室の壁との間には、甲や冑が置かれています。初めは冑だけが鉄製だが、4世紀には鉄製の甲も現れて、5世紀に入るころには複数の甲・冑のセットを入れるものも出てきます。5世紀の後半になると馬具も加わりおもに足元に置かれます。これらの武器や防具のほか、鉄製のナイフ・斧・鎌・鍬・鋤などの農具や工具もたくさん入れられます。5世紀の農具や工具はミニチュアが多く、さらにそれらを滑石(蝋石)で模造したものが流行します。

 以上をまとめると、遺骸に接して鏡・刀剣・鉄器・玉類を少しずつ配置した棺の外側に、さらに多数の鏡や刀剣や鉄製農耕具、武器・防具・馬具などの品々がおびただしく置かれます。その後に石室に石の蓋をかけていき、粘土で封印して埋め戻します。上には埴輪を立て並べて埋葬の完成です。埴輪は格段のテラス(古墳の斜面の段になった平坦なところ)にも立ち並べられ、埋葬された古墳の主をいくえにも護っています。

 たくさんの美麗な品を副葬したり、趣向を凝らした各種の埴輪を立て並べたりすることは、5世紀に頂点に達します。墳丘の規模がピークを迎えるのも5世紀のことです。このようにしてひとりの人物を美や威厳で飾り立てることがもっとも盛んになる時期、すなわち、そうした物質文化によって人びとの間の秩序がもっとも華やかに演出される、文字以前の複雑社会が完成の域に達した段階を、日本列島では5世紀におくことができます。

(参考文献)

松木武彦「箸墓の内部」『列島創世記』小学館2007年