にわか考古学ファンの独り言(弥生時代)

   後期後半(1世紀~3世紀)古墳時代への道⑤

  倭国の乱の原因ー鉄以外 

 倭人が鉄を国産していたとは考えられない以上、朝鮮半島島南部から鉄素材を輸入することによって倭国内の需要を満たしていたという前提の上で考えてみたいと思います。

 鉄の奪取を目的とした倭国乱の結果、勝利した吉備や近畿でも鉄が普及したという前回までの説明では、倭国の乱の原因を説明することはできません。むしろその原因を鉄に求めるのではなく、倭国の乱の結果、鉄が列島規模で東日本まで広がるようになったと考えたほうが自然であります。

 そこで倭国の乱の原因を鉄に求めない場合、倭国の乱以降に起きた考古学的事象の変化をうまく説明するには、何に原因を求めたらよいのか考えてみたいと思います。

 弥生後期以降、分布が変わってくるのは、銅鐸と前漢鏡や後漢鏡です。これら青銅器の動きから近畿中央部に祭祀的な中心が形成されていくことがわかります。

 玄界灘沿岸諸国における階層差の存在を物語るものとして前漢の大型鏡があります。これらの鏡は前1世紀前葉から中ごろにかけて作られたもので、前1世紀後半の九州北部の王墓に大量に副葬されました。伊都、奴、不弥など、当時の玄界灘沿岸諸国でしか見ることができない現象です。

 ところが前1世紀後葉から後1世紀初めにかけて前漢や新で作られた鏡から、列島における分布のありようが変わってきます。もっとも多く出土するのは伊都国の王墓である鑓溝甕棺墓ですが、東方への分布が拡大して、古墳の副葬品として出土するようになります。紀元前後に制作された鏡がどこかで200年以上伝世されてから、最終的に近畿の古墳に副葬されています。

 さらに、1世紀中ごろから後葉にかけて作られた後漢の鏡になると、伊都国の王墓である糸島市平原遺跡を除けば玄界灘沿岸諸国における大量副葬はなくなり、むしろ伝世後に瀬戸内や近畿の古墳に副葬される例が増え、奈良県天神山古墳のように大量副葬される古墳も出てきます。この時期になって初めて九州北部とそれ以外の地域がほぼ均衡することになります。中国の鏡の分布は最古の後漢鏡群から舶載後の分布が拡大します。すなわち、倭国乱のはるか以前から変化し始めていることがわかります。

 後漢鏡が日本列島にもたらされることになった契機を、107年に倭国王師升が後漢朝貢したことに求める研究者は多いですが、師升玄界灘沿岸諸国にいたのか、吉備や近畿などにいたのかによって、後漢鏡の分布を説明する背景が大きく異なってきます。もし後者だとしたら、中国鏡という威信財が、鉄素材のような必需財に先行して東方世界に広がっていたことを意味します。たとえ前者だったとしても、九州北部から近畿にかけて鏡を配布する仕組みが、2世紀に出来上がっていたことを示唆するもので、やはり鉄器よりも早く東方世界への分布を拡大していたことになります。

 2世紀以降、鉄素材や鉄器と中国鏡の分布の中心が大きくずれる原因は、玄界灘沿岸諸国と近畿を中心とする東方世界とでは求めるものが違っていたことにつきます。前1世紀後半の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡を最後に、中国鏡の大量副葬は伊都国に限られるようになり、分布も有明海沿岸などの玄界灘沿岸諸国を取り巻く九州北部の周辺地域の首長たちに及ぶようになっています。

 玄界灘沿岸諸国の首長たちにとってむしろ大事だったのは、生産力を保証する鉄素材などの必需財の確保と流通であり、鏡などの威信財を重視して必要とする時代は遠い過去のものとなっていた可能性があります。

 一方、近畿を中心とする東方世界はといえば、有明海沿岸諸国と同様、まだまだ中国鏡など遠距離交易でしか確保できない威信財を重視し必要とする段階にとどまっていました。こうした立ち位置の違いが必需財と威信財の分布がズレることの背景にあったと考えられます。

 かつての「見えざる鉄器説」は、祭祀・政治の中心と生産・経済の中心が一致することによって、古墳時代の政治的な中心が完成することを説明しようとしたものでありましたが、現在の学会では、それらを一致させることなく説明しようとしています。

 つまり、宗教的権威をもつ者が威信財を有効に使って、演出した舞台装置である前方後円墳上で取り行われたまつりこそが、古墳時代の始まりであったのではないでしょうか。

 このブログは今回を持って一応終了します。短い間でしたが、私の拙い文章に付き合ってもらった方々には感謝申し上げます。次回は古墳時代について書いてみたいと思っていますので、その際にもまた読んでいただければ幸いです。

 

(参考文献)

藤尾慎一郎

前方後円墳に取りつかれた人びと」『弥生時代の歴史』講談社現代新書2015年