にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 古墳の創出③

 古墳の主の神格化

 今までみてきた遺骸の葬り方で弥生時代の墳丘墓と比べてもっとも大きく異なっているのは、棺の外側に膨大な品々を配置する点です。このことは、箸墓に葬られた人物の性格をさらに詳しくさぐるうえでも重要です。

 そのための最良のヒントは、九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島です。福岡から77kmのところにある、周囲およそ4km、最高地点243mの孤島で、ふつうの日常生活を営むのは難しいです。切り立った崖が続くなかで唯一開けた浜になっている南の岸から少し登ったところに、宗像大社沖津宮が鎮座します。この宮の裏側には、とくに大きな十数個を中心にした巨石群があって、それらのすき間や上面に、人びとが品物を奉献した跡が十数か所ほど確認されています。島の位置からみて、日本海航路の守護や安全を、航海者や交易者が祈った聖地だったことは疑いありません。

 奉献された品々の年代から、品物の供献は4世紀に始まり、古代を経て中世の室町時代まで続いたことがわかっています。そのうち、古墳時代にあたる4世紀から6世紀までの品々を見ると、鏡・刀剣・玉類・滑石製の農耕具・甲冑・馬具などで、古墳の棺の外側に置かれた品々と共通します。もっとも古いとされる17号遺跡では、三角縁神獣鏡を含む21面もの鏡が置かれていました。こうした大量の奉献も、古墳棺外の状況と同じです。このことは、沖ノ島の巨石に宿って海上通行の安寧を護ることを期待されていた超自然的存在と、大型古墳の主とは、同等のものとして扱われていた可能性を示しています。沖ノ島の超自然的存在を神と呼んでいいなら、死せる古墳の主もそれに準ずる存在と認識されていたことになります。箸墓に葬られたのは、このような神格を与えられた最初の人物だったと考えられます。

 箸墓が、それまでの墳丘墓とどのような点で異なっているかが、しだいに明らかになってきました。ひとつは、それまでとは比較にならないほどの労働力を要する巨大な墳丘をもち、墳丘の形と規模とで示される秩序の頂点に立つことです。そして網一つは、葬られた人物が、遠距離交易を支える航海の「守り神」と同等の神格を与えられていることです。

 このように整理すると、箸墓に埋葬された人物は、それまでに、纏向をはじめとする各地で前方後円墳や前方後方形の墳丘墓に葬られてきた大酋長たちの、さらに上に立つ代表者としてまつりあげられた存在とみていいと思います。つまり、鉄を軸とする外部の諸物資や、それをもたらす遠距離交易の支配権をめぐって競争的関係にあった各地の大酋長たちは、お互いの利害をうまく調整して対立を避け、物資所得のためのさまざまな活動を共同で行うための、対外的な旗印となる人物を擁立するに至ったものと推測されます。

 こうして擁立された人物は、日本列島の広い範囲の利害を代表し、そこに寄り集まった人びとのアイデンティティを体現し、対外交渉の先頭に立つ、経済・文化・政治の各面にわたる代表権者です。神格化された可能性が高いことから、その座を王位と呼んでも差し支えありません。外部の社会からも、倭を代表する王、すなわち倭王と見なされる存在だったのでしょう。邪馬台国卑弥呼もこれに準ずる存在だったと思われます。

(参考文献)

松木武彦「古墳の主の神格化」『日本創世記』小学館2007年