にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 巨大前方後円墳の移り変わり①

 考古学者は、墳丘長が200m以上の前方後円墳を「巨大前方後円墳」とよびます。そこに葬られたのは、大王やヤマト地域の主要豪族、ならびに各地の大豪族たちでした。文化的中心地であったヤマト地域において、巨大前方後円墳がどう推移したかを述べたいと思います。

 奈良盆地南東部の古墳群

 弥生時代の終りごろ、前方後円形の大型墳丘墓が奈良盆地南東部(桜井市天理市一帯)に出現しましたが、古墳時代前期前半の前方後円墳もこの場所を踏襲して築造されます。神々が宿るという三輪山の麓、ヤマト王権誕生の聖地です。箸墓古墳が最初に築かれ、その東方の丘陵に大和、萱生、柳本古墳群が形成されていきます。西殿塚古墳(225m)、行燈山古墳(242m)、渋谷向山古墳(300m)の三基の巨大古墳を中心に、100m級の前方後円墳前方後方墳が累々と築かれます。

 南方の鳥見山北西の丘陵部にも桜井茶白山古墳(200m)とメスリ山古墳(224m)が造られますが、東丘陵部の古墳とは別の系統と考えらています。また、前期後半には、平野部に進出して鳥の山古墳(200m)が築かれました。

 以上の古墳群においては、長大な竪穴式石室の整備や円筒埴輪の創出が行われました。三角縁神獣鏡が多量に保有されているのも大きな特徴です。

 佐紀古墳群

 前期後半になると、奈良盆地北部(奈良市)佐紀の地に古墳群が移っていきます。巨大な前方後円墳は8基あり古墳群の中でも丘陵上の西群(前期後半)から、平野部の東群(中期前半)へと推移していきました。

 西群には佐紀陵山古墳(207m)・佐紀石塚山古墳(218m)、五社神古墳(267m)が、東群にはコナベ古墳(204m)、ウワナベ古墳(255m)、市庭古墳(253m)、ヒシアゲ古墳(219m)があります。ほかに南に2キロほど離れて鳳来山古墳(227m)が造られています。新しい東群の古墳は、後に述べる古市・百舌鳥古墳群と時期が並行しています。

 この古墳群では、家形や盾形・蓋形などの形象埴輪や滑石で器物の形を写した石製模造品が生み出されました。石棺の採用も、この古墳群からと考えられています。

 馬見・葛城の古墳群

 奈良盆地南西部の馬見丘陵から葛城地域(河合町・御所市ほか)にかけては、前期後半から中期前半の巨大前方後円墳がやや距離を置きながら造られています。北からみていくと、河合大塚古墳(197m)、巣山古墳(220m)、二木山古墳(200m)、築山古墳(220m)の順に分布し、南端部には室宮山古墳(238m)が築かれています。ほかに100m台の前方後円墳前方後方墳が複数みられます。のちに葛城氏とよばれる在地の大勢力が築いたとも考えられています。

(参考文献)

若狭徹「巨大前方後円墳の移り変わり1」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年