にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 巨大前方後円墳の移り変わり②

 中期になると、大阪平野古市古墳群羽曳野市ほか)と百舌鳥古墳群堺市)が出現します。前方後円墳は、この時期に最も規模が大きくなります。両古墳群の時期は並行しており、二つの勢力が併存して、交互に大王を出した可能性が指摘されています。郡内には巨大前方後円墳のほかに100m台の大型前方後円墳も組み合って築かれます。また巨大前方後円墳の周囲に、陪塚という小古墳が衛星のように造られるのも特徴です。

 古市古墳群

 奈良盆地を源とする大和川大阪平野に流れ出た場所に選地されます。津堂城山古墳(208m)からはじまり、仲津山古墳(270m)、墓山古墳(225m、誉田御廟山古墳(425m)、市野山古墳(230m)、岡ミサンザイ古墳(242m)と巨大前方後円墳が連綿と築かれます。100m台の古墳も9基あり、なかでも軽里大塚古墳は190mもある前方後円墳です。

 百舌鳥古墳群

 大阪湾岸に面した台地上に存在し、巨大前方後円墳は、上石津ミサンザイ古墳(360m、大山古墳(486m)、土師ニサンザイ古墳(290m)の順で築かれます。ほかに四基の大型前方後円墳があり、なかでも百舌鳥御廟山古墳は186mの規模を誇ります。古墳群の背後には、国内最大の須恵器生産地(陶邑窯跡群)が存在します。

 この二つの古墳群では、長持形石棺の普及や人物埴輪の創出、鉄製甲冑・武器・農耕具など鉄製器物を大量に副葬することが流行りました。膨大な数の円筒埴輪を作り、立て並べる必要から、窯での埴輪生産も開始されました。また渡来系遺物の出土も目立ちます。

 巨大前方後円墳の造営地が、奈良(大和)盆地から大阪(河内)平野に移動する現象に関しては、河内地域の勢力が成長し、政権を大和の勢力から奪取したとする「河内政権論」が文献史学・考古学双方から主張されていますが、一方、大和の勢力が河内平野の開発を進め、王宮は大和に置きながらも墓地だけを河内に築いたとする考え方も存在します。古市・百舌鳥古墳群の成立した理由は、大きな古代史上の論点となっています。

 後期の古墳群

 後期にいたると、河内大塚山古墳(335m)を最後に古市・百舌鳥古墳群は終焉し、全国の古墳の規模は一様に小型化します。巨大古墳造りにかける情熱がいっぺんに冷めたかのような状況で、前方後円墳のもつ政治的な意味の変質を示唆しています。

 後期前半には淀川北岸の三島野に今城塚古墳(190m)が造られ、埋葬施設に横穴式石室と家型石棺が採用されます。後期後半になると大王墓の所在地は奈良盆地南部に戻り、五条野丸山古墳(318m)をもって巨大前方後円墳は終わりを告げます。

 巨大前方後円墳の築造地とその推移は、大王や有力豪族の系譜、その盛衰、政治的・経済的基盤の移動など、多くのことを考えさせます。また、新たな文物が移動のたびに生み出されており、古墳時代の考古学研究において、目が離せない重要な位置を占めています。

(参考文献)

若狭徹「巨大前方後円墳の移り変わり2」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年