にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

  古墳時代の首長について

 日本では、弥生時代に本格的な農耕社会が誕生しました。農耕、とくに稲作においては、種まきから収穫にいたるまで、長期にわたる人びとの協業が欠かせません。このとき、時間や労働を管理し、集団の利害調整や富の分配を行う権限が、優れた人物に任されました。その人物は、共同体を代表して他集団との問題を解決し、ときには武力を用います。こうして首長(王)が誕生するのです。彼らは農政や生産を司るとともに、交易によって資源や財物を入手するなど、富を共同体にもたらす役割を担っていました。

 古墳時代になると、前代にみられた地域間の緊張関係が解消され、首長たちの連合が創り出されました。これがヤマト政権です。前方後円墳とそこでの儀礼・祭祀を共有することで連帯感を醸し出し、そのネットワークを通じて鉄などの物資が供給されました。加えて鏡・武器・武具・装身具など威信財の配布等によって、勢力間の調和が保たれたのです。

ヤマト政権のなかでの首長たちの威勢は、基本的に古墳の大きさであらわされました。このため中期までの前方後円墳は巨大化をつづけ、壕や堤を巡らし、多量の埴輪を並べて外観を競っていました。すなわち、前方後円墳は巨大な「みせびらかし」の装置だったのです。

 地域のなかでは、古墳という巨大建造物によって神聖な首長(神聖王)の権威は維持されました。また古墳の造営は技術・知識を進歩させ、土木事業や手工業などの地域経営に利用されました。首長の生前からはじまったとみられる古墳造りや、死後の葬送儀礼への参加は、共同体の社会的結束を高め、同時に富が首長から民衆へ再配分されるシステムとして定着していたと考えられます。おそらく古墳の造営は、共同体に不可欠な事業として、古墳時代社会のサイクルに組み込まれていたのでしょう。このことで、日本列島に5000基もの前方後円墳をはじめ多数の古墳が造られたわけが理解できます。

 ところで副葬品からみると、首長の性格が前期から後期にむけて、司祭→武人→官僚と変化していくと前に述べましたが、前期にはひとつの古墳に男女の兄弟を合わせて葬ることがあり、政治と祭祀を性別によって分担していた可能性が指摘されています。また、前期までは女性首長が珍しくなかったことが人骨研究から判明しています。しかし、中期以降になると前方後円墳の築造地が固定し、古墳群が形成されていくことから、首長の継承法が変化したと考えられます。埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘文にみるように男系継承が優位となり、後期後半には氏族が成立すると考えられています。

(参考文献)

若狭徹「古墳時代の首長像」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年