にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 ヤマトと地方との関係性 

 地方の古墳である埼玉県稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳の刀剣には、その持ち主が代々の大王へ奉仕した事績や、かれらの職制が刻まれています。これにより、五世紀には地方豪族が中央に出仕するシステムが存在していたことが明らかになりました。『日本書紀』には、火(熊本県一帯)・吉備・上毛野・紀(和歌山県)などの地方首長が、朝鮮半島で軍事行動や外交活動をおこなった記事があります。首長たちは地方を治めるとともに、中央に出仕し、ヤマト政権の用務も果たしたと考えられます。古墳時代首長は私たちが思うより広く活動していたのです。

 こうして地方とヤマトの関係性には、次の二つの見方が存在します。ひとつは近畿地方の勢力が政治・経済・外交・軍事のすべての面で圧倒的に優勢であったと考える説、もうひとつはヤマトが主導的でありながらも、有力地方首長も政権を分担する緩やかな連合体であったという考え方です。

 前者の立場からは、古墳時代にヤマト地域の巨大前方後円墳を頂点として、墓の形と大きさで表示された身分制が存在したとする戸出比呂志の「前方後円墳体制説」が提起されています。前方後円墳の分布範囲にみる文化領域、身分制をコントロールする政府、居館や古墳の築造にみる労働徴発権、巨大倉庫群の存在にみる祖税制、刀剣銘文にある職制など、ここに官僚制の萌芽をみとめ、古墳時代を「初期国家」の段階にあるとこの説は規定します。

 一方、後者の立場からの主張もさまざまになされています。たとえば、前方後円墳体制は厳格なものではなく、そのシステムに柔軟に参加・離脱することができたとする考えがあります。小首長らがある理由で大首長を共立し、一時的に前方後円墳が造られるが、その必要が解消すると連合は分解し、前方後円墳も消失するという指摘です。こちらの立場では、政治システムは、大王と首長らの人格的な関係にもとづく「部族連合」の段階にとどまっていたとみなされます。

 経済システムにおいても、中央が生産と流通をコントロールする宝器(威信財)を媒介として富を消費する、未成熟な「威信財経済」の段階にあり、巨大な古墳の造営とそこでの祭祀を見せつけることによって、社会秩序を維持する「神聖王権」のレベルにとどまっていたとする意見があります。すなわち、法と官僚によって支配される「国家」の前段階であったとするのです。

 上記の諸説では、おおむね飛鳥時代(七世紀)以後を「本格国家・成熟国家」とする点では一致します。しかし、古墳時代そのものの評価となると決して一様ではないのです。初期国家を認める立場のなかでも、その開始については三世紀と五世紀説が存在し、都出比呂志が整理した「七五三論争」は、いまだ決着をみていません。

 今回をもって、古墳時代その②編は終了させていただきます。短い間でしたが、読んだくださった方には感謝申し上げます。

(参考文献)

若狭徹「中央と地方そして国家」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年