にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 ヤマトの王と地方の王 

 古墳の種類や副葬品・埴輪については、古墳時代編で述べていますので、別の視点から古墳について書きたいと思います。

 巨大前方後円墳の大半はヤマト地域にあります。しかし地方にも突出した規模の古墳があり、なかでも吉備(岡山県)と上毛野(群馬県)の古墳は時代を通じて卓越し、倭の小中心を形成していました。吉備では造山(360m)、作山(286m)、両宮山(206m)、金倉山(165m)、神宮山(150m)など、上毛野では太田天神(210m)、浅間山(172m)、別所茶臼山(168m)、七輿山(146m)などが代表的な古墳です。多くは中期前半の築造で、最上級の長持形石棺をもつ古墳もあります。両地域とも農業や手工業による生産性が高く、交通の要衝であったことが知られています。吉備は弥生後期から瀬戸内海沿岸の文化的中核を担い、上毛野は北方世界(後の蝦夷)との領域境界ににあたりヤマト政権の東方拠点としても重視されました。

 このほか、大隅(鹿児島県)、日向(宮崎県)、筑紫(福岡県)、播磨(兵庫県)、丹後(京都府)、尾張(愛知県)、甲斐(山梨県)、総(千葉県)、常盤(茨城県)、陸奥宮城県)などでは、ある時期に限って150mを越えるような大前方後円墳が造られました。そのときどきに、重要な役割を担って王権と結んだ有力者が存在したのです。

 例えば日向では中期前半に女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳(175m)の大型古墳が造られました。日向は、『古事記』などに天皇の祖が天から降り立った場所とされており、この時期に王権と特別な関係を結んだと考えられます。筑紫は弥生時代から大陸文化の玄関口として栄えてきましたが、後期初頭に岩戸山古墳(135m)が成立しました。『日本書紀』には、筑紫君磐井が新羅と組んで王権(継体大王)の兵を阻んだことが記されており、岩戸山はこの磐井の墓と推定されます。この地域では、古墳に石人・石馬を埴輪のように立てたり石室内に装飾画を描くなど、独特の文化を発達させています。

 播磨には前期後半の五色塚古墳があり、瀬戸内海の海運を掌握した王の墓とみられます。同様に、日本海の海運基地である丹後にも前期末から中期初頭の網野銚子山古墳(198m)・神明山古墳(190m)があり、物資流通を差配した首長の存在が知られます。尾張には、後期初頭に断夫山古墳(150m)が造られました。継体大王に妻を差し出し、王権を支えた尾張連氏の祖先の墓とみられています。甲斐には前記後半の甲斐銚子塚古墳があります。農業生産が高くない内陸盆地に位置しますが、日本海側と太平洋側を結ぶ交通の結節点として、一時期、王権に重視されたと考えられます。

 関東では、太平洋の海上交通の拠点である上総に内裏塚古墳があり、後の東海道ルート上の霞ケ浦沿岸には中期前半の船塚山古墳(186m)が存在します。船塚山の主は、巨大な内海だった香取海の水上交通を押さえていたと推定されます。東北では仙台平野に中期前半の雷神山古墳(168m)があり、仙台湾を望む段丘上の要所を占めています。

(参考文献)

若狭徹「ヤマトの王と地方の王」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年