にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 古墳時代の終焉 

 350年つづいた古墳時代において、ヤマト王権の力は前期には弱く、後期になって強化されていきますが、そのなかでもある時は強まり、あるときは弱まるという振幅をもっていました。

 5世紀には、宋との外交、渡来人の政治への参画によって王権の力が強まりました。古市・百舌鳥古墳群の継続期間の後半期(中期中ごろ)から、地方の前方後円墳の規模が縮小することも、王権の規制の強化(雄略大王の時期)を物語っています。朝鮮半島南西部の栄山江流域に前方後円墳が出現し、倭の文化的影響が広がるのもこのころの現象です。

 つづいて到来する古市・百舌鳥古墳群の終焉は、大きな社会変動のあらわれといえます。6世紀前半には巨大前方後円墳の造営地が淀川北岸に移動し、大阪府高槻市今城塚古墳が成立しますが、これを大王位継承の危機にあたって登場した継体大王と関連して説明する説が有力となっています。「日本書紀」にはこの時期、朝鮮半島での倭の活動に重大な変化が生じるとともに、北九州の豪族筑紫君盤井が反乱した記事ががみられ、王権の揺籠があったと推測されます。

 6世紀後半には、王権と地方豪族との関係が大きく変わります。主要な経済的・軍事的な要衝を王権の直轄下に置く「屯倉」の設置や、豪族を地方官に任命して地域支配を任せる「国造制」がはじまったのです。「日本書紀」には、6世紀に中央の曽我氏を派遣して岡山県域に児島屯倉・白井屯倉を設置した記事があり、日本最古級の碑である群馬県高崎市山上碑(681年造立)にも東国に屯倉(佐野屯倉)が設置されたことを証明する碑文が刻まれています。また、「日本書紀」にも国造の位を争う武蔵地域の豪族の内紛と、それにつづく屯倉の大量設置記事が記されているのです。

 国造制に連動して部民制もはじまりました。島根県岡田山1号墳出土の大刀に刻まれた「額田部臣」(6世紀後半)の文字がそれを証ています。額田部は、推古天皇(幼名は額田部皇女)に物資を貢納するために設置された集団(部民・名代)で、碑文の額田部臣は彼ら部民を統括した地方豪族であり、中央にも出仕していたとみられます。国造以外の地方豪族も直接中央に組織化され、官人化への道を歩む動きがみてとれます。

 これらの制度によって王権の政治的・経済的基盤は強化され、中央氏族の地方への関与・移住も進みましたが地方豪族のなかにもこれを契機に中央と結んで技術移入や経済振興を進める者があって、双方向的な動きがうかがえます。6世紀後半に西日本で前方後円墳が下火になっても、関東地方で大型・中型前方後円墳が造りつづけられる現象は、そうした観点から説明されています。

 6世紀以降は、推古天皇厩戸皇子・曽我馬子による政権下で遣隋使が派遣されるなど、中国文化や国家制度の摂取が急がれ、入れ替わるように古墳時代の象徴であった前方後円墳は終焉します。巨大記念物によって豪族たちの連合を示し、その威光によって集団をまとめた時代は終わりを告げ、法と官僚と仏教による律令国家の構築をめざす動きが加速していくのです。

 このブログは今回をもって一応終了します。短い間でしたが、私の拙い文章に付き合ってもらった方々には感謝申し上げます。次回は旧石器時代について書いてみたいと思っていますので、その際もまた読んでいただければ幸いです。

(参考文献)

若狭徹「古墳文化のエピローグ」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年