にわか考古学ファンの独り言(旧石器時代)

 関東ローム層の中から石器が出た!

 今回より日本の旧石器時代について書きたいと思います。

 昭和24年、桐生で行商を営む考古学青年相沢忠洋によって関東ローム層から採取された黒曜石の石片が、日本旧石器研究の重い扉を押し開きました。戦後最大の考古学的発見といわれる岩宿発掘であります。

 桐生市の西南約4km、両毛線の岩宿という小さな駅があります。その駅の西北方にひょうたん形の孤立丘があり、くびれた鞍部には切通の道が走っています。ここは通称「稲荷山の切通し」と呼ばれており、道の両側には赤土の断面が露出しています。ある日、行商の帰りにこの道を通った相沢は、断面から崩れ落ちた赤土の中から頭を出している黒曜石の破片を眼に留めました。拾いあげてみると、それは薄く鋭利な割れ方をしていて、人間の作った石器であるように思えました。その後何回か同じ場所に通っているうちに、採取した石片の数も増えていきました。

 そして1949年の7月に入ってから、赤土の断面に突き刺さるように一部をのぞかせている石片に気がつきました。指先で動かしながら抜き取ってみると、何とそれは黒曜石で作られた見事な槍先形の石器でありました。赤土の中から石器が出てくるという事実がここで確認されたのです。

 赤土層は地質学上では関東ローム層と呼ばれており、1万年以上前の更新世に火山の爆発によって空に吹き上げられた火山灰が、ふたたび地上に降り積もってできた地層だといわれています。だから1万年以上前の関東地方はいちめんの火山灰地であって、気も草も生えず、動物も棲息せず、まして人間の生活など思いもよらないような死の世界であったと信じられていました。

 当時の日本の考古学者も地質学者も、赤土層の中から石器が出土するなどということは、誰一人として考えてはいませんでした。縄文時代の遺跡を発掘していて、トレンチの底から赤土が顔を出した時には、もう発掘はこれで終了ということになりました。赤土層は無遺物層だから、それ以上掘ってみる必要はまったくない。これが当時の考古学界の常識でありました。

 ところが、大学教授を含めた学会の権威者たちの誰もが気がつかなかった、考古学界のながい間の常識の噓を、ほとんど学歴さえ持たない一人の貧しい若者が見破ってしまったのです。ここに、長い間、考古学者から無視されてきた赤土―関東ローム層は、重要な旧石器時代の文化層をふくむ地層として注目されることになりました。無名で、しかも貧しい納豆売りの若者相沢忠洋が、日本旧石器時代の重い扉を、その節くれだった両手で押し開けてくれたのです。相沢は岩宿のローム層中に石器が抱合されている事実を発見し、約70年にわたって多くの考古学研究者から見逃されてきた旧石器研究の重い扉を開けた日本旧石器文化研究のパイオニアだったのです。

(参考文献)

芹沢長介関東ローム層の中から」『日本旧石器時代岩波新書1982年