にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

  渡来技術と手工業について   

 日本最古の歴史書の一つ『日本書紀』には、古墳時代ごろに朝鮮半島から、王族や学者などの知識層や、「今来才伎」とよばれる技術者群がやってきたことが記されています。これを契機として、新技術が堰を切ったように流れ込み、新たな手工業を発達させます。

 窯業 

 それ以前の日本には、窯を用いて硬い土器を焼く技術はありませんでしたが、4世紀から5世紀の初めになって大阪府南部の丘陵に窯業地帯(陶邑窯跡群が形成され、須恵器の生産が開始されます。操業の初期のものは、朝鮮半島南東部の伽耶地域(慶尚南道、つづいて同南西部の栄山江流(全羅南道)の陶質土器の技術的影響を受けており、陶工が何次かにわたって招聘されたことが明らかです。その技術は直ちに広まって、倭の各地に窯業が根付いており、こうした先進技術の獲得は豪族たちの憧れであったことがうかがえます。

 鉄器生産

 鉄製品の生産も飛躍的に伸びています。砂鉄や鉄鉱石から鉄原料を作る製鉄(大鍛冶)技術はまだ不明な点が多いですが、朝鮮半島から輸入された鉄素材を製品に加工する小鍛冶遺構の検出が激増します。大坂府大県遺跡や森遺跡では、鍛冶炉・鞴の羽口・鉄滓・砥石・工房跡などがみつかっており、大規模な鉄器生産所の存在が明らかになりました。工房や周辺のムラからは朝鮮半島の日常容器に酷似した韓式系土器が出土し、創業には渡来人が関与したと考えられます。なお、瀬戸内海沿岸地域を中心として、大鍛冶遺構(製鉄炉)がみつかりはじめ、後期後半には国内でも製鉄が開始されたことが確認できます。鉄器生産の燃料には、原木よりも火力が強い木炭が必要とされました。このため炭の生産も連動しておこなわれ、森林資源の利用が進んでいきます。

 金工芸

 金属関係の分野では、金工も著しく発達しました。銅板にタガネで微細な模様を線刻、透彫りを施し、細かいパーツを取り付けて鍍金する工芸技術の隆盛です。豪族は、冠・耳飾り・付金具・刀剣・履・馬具などをこうした技術で装飾し、金ぴかの装いに身を包んでいたのです。その美意識は、中世以後の「侘び・寂び」の枯れた味わいとはかけ離れていますが、当時の人びとの心をとらえた韓風ファッションであり、彼の地から技術共々もたらされたものでした。

 紡績 

 古墳時代人は、装身具とともに、おしゃれな衣装を身に纏っていました。布は残りにくいものの、奈良県藤ノ木古墳ではスパンコールをつけた布地が検出され、美しい織物が存在したことが明らかです。出土品には繊維を撚るための道具である紡錘車や、木製機織具の部材がみられており、すでに地機や高機が存在したようです。この時期には養蚕と新しい機織技術が渡来人よりもたらされ、染色・縫製技術とともに隆盛したのでしょう。

 なお、こうしたさまざまな新しい生産拠点は、王権の直轄地である奈良盆地大阪平野に、計画的に配備されていったと考えられます。

(参考文献)

若狭徹「渡来技術と手工業」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年