にわか考古学ファンの独り言(古墳時代)

 古墳時代のムラ

 古墳時代になると首長の館はムラから独立しました。では、一般のムラとは、いったいどのようなものだったのでしょうか。従来、古代のムラには竪穴建物が存在し、西日本ではこれに加えて掘立柱建物が知られていました。ところが、群馬県地域の火山灰に埋もれたムラの発見によって、古代集落のイメージは大きく転換しました。そこには、予想以上に豊富な地表の情報が残されていたのです。群馬県黒井峯遺跡を中心として、みていきましょう。

 まず、ムラの中には、世帯とよべるようなまとまり(単位)があることがわかりました。竪穴建物一軒ないし数軒に対して、垣で囲われたエリアがともなっています。そうした単位が台地上のあちこちに点在し、道で結ばれています。このような単位には規模の差があり、家族構成の変化によって垣を足し、拡張していったようです。

 垣のなかには、簡単な平地建物がたくさんあります。平面形には方形と円形があり、細い柱を埋めて(打ち込んで)つくった枠に屋根を掛けたものや、細木を縛ってつくったパネルを何枚も立てて方形に連結し、屋根を掛けたものなど、何通りかの造りがみられます。壁も屋根も草葺です。火山灰でパックされなければ確認が困難であった建物であり、華奢な構造のためしばしば建て替えたことでしょう。

 平地建物には、竈がある住居、物を納めた倉、大甕や木の曲物を埋め込んだ醸造所らしき小屋、内部が複数のスペースに分かれた家畜小屋などがあり、多様な用途に分かれていました。このほかに、柱を総柱にして床をあげ、高床とした掘立柱建物もありました。

 垣の内には畑もあり、稲の苗のようにこまめな管理が必要なものを植えた場所(陸苗代)だったとする説があります。一角には完形の土器を集めた場所があり、神まつりの場だったとみられます。遺構のない空間は広場で、脱穀や天日干しなどの作業スペースとなっていたのでしょう。古い竪穴建物の窪みは、半ば埋もれてゴミ捨て場となっていました。

 垣を出ると道が縦横に伸び、二人が並んで歩けるような幹線から、一人幅の踏み分け道が分岐していきます。交差点もあり、その脇には土器が置かれて、神がまつられていたようです。ムラの中には、さらに大規模かつ多量の土器を集めた区画があり、皆が集うむらの中心的なまつり場だったとみられます。谷のほうに降りていくと泉があり、水汲みの壷が備えられています。泉の水は、狭い谷水田に流れ込み、やがて広い水田地帯へと導かれています。

 むらの近くには、直径10mほどの小型古墳がまとまって築かれた群衆墳があります。横穴式石室の口をあけて使者を追葬できる家族墓です。黒井峯遺跡の竪穴建物からは、古墳から出土するような装飾品がみつかっています。つまり群衆墳は、竪穴建物に暮らしたむらの人たちの墓だと考えられるのです。おそらく、ひとつの単位(世帯)がひとつの古墳に対応し、世帯群である集落の墓域が、群衆墳の範囲に対応するのではないかと考えられます。

(参考文献)

若狭徹「明らかになったムラの実体」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年