古墳の創出①

 箸墓登場

 古墳についてもう少し詳しく書いてみたいと思います。

 二世紀の中ごろ、奈良県桜井市纏向遺跡群の南の端に、それまでにない威容を誇る超大型の構造物が現れました。箸墓(または箸中山)と呼ばれるこの巨大前方後円墳は、五段に築かれた直径150mほどの円形墳丘の一方向に、三味線のバチのような平面形をした長さ約130mの突出部がつき、墳丘の長さはおよそ280メートル、高さは29m以上あります。

 箸墓の原形が、すでにその少し前に生み出されていた前方後円墳の墳丘墓にあることは確かです。しかし、それらの箸墓との間には、はっきりとした規模の違いがあります。箸墓以前の前方口縁形墳丘墓の代表格といえる近くのホケノ山と比べてみると、墳丘の長さはおよそ3.5倍、高さは約4倍、体積だと20倍以上になります。このことからまずいえるのは、箸墓の造営には、それまでの箸墓とはくらべものにならないほどの労働力がかかっているということです。

 箸墓についてその大きさとともに特質すべきは、箸墓と相似形で規模が箸墓の二分の一や三分の一になる前方後円墳が各地出現することことです。また、前方後円墳の円形の部分を方形に置き換えた前方後方墳も存在します。都出比呂志は、古墳の規模と形によって葬られた人の身分を表示する政治秩序が、箸墓と出現とともに形成されたと考え、これを「前方後円墳体制」と称しました。このような政治体制が列島各地の有力者の間につくられたことが、弥生時代とは異なる古墳時代の特質だと説きました。そして、こうした体制のもとでつくられた日本列島の墳墓を、弥生時代までの墳丘墓と区別して「古墳」と呼ぶ考えも、多くの研究者に受け入れられています。

 箸墓の登場は、このような体制の頂点に立ち、その葬送にのぞんで莫大な労働力を集めることが可能であった人物が現れたことを示しています。では、この人物は何者だったのでしょうか。箸墓の内容を詳しくみることによって、それを明らかにしてみたいと思います。

(参考文献)

松木武彦「古墳の創出」『列島創成期』小学館2007年