にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 古墳文化のプロローグ

 古墳文化は、三世紀中ごろから六世紀末ごろまで、日本列島の中央部に栄えた文化です。同じごろ、沖縄・南西諸島には貝塚後期文化が、北海道には続縄文文化が存在していました。南北に長く、気候が異なる日本列島には三つの文化圏が並んだ栄えていたのです。南と北の文化は狩猟・採取によって社会を維持していましたが、古墳文化はそれと異なり、農耕と手工業を組み合わせた生産社会を生み出しました。前身である弥生文化をベースとして、階層を発達させ、国家への道のりをたどっていった文化だったのです。

 考古学者は、古墳文化がつづいた時間帯を古墳時代として括りますが、具体的には前方後円墳の出現と終りを目安としています。なぜ前方後円墳かといえば、それが単なる墓にとどまらず、政治や社会を維持するために大切な役割を果たしていたと考えられるからです。

 では、最初の前方後円墳はどれでしょうか。学者によって意見が分かれます。円形の墳丘に方形の張り出しをつけた前方後円墳の祖形は、弥生時代後期後半(二世紀)の岡山県楯築墳丘墓(墳丘長80m)からはじまりました。同じころ、山陰から北陸にかけての日本海側では、方形を基調にした台状墓や四隅突出墓が造られ、段丘に石を貼り、玉や鉄製品などの副葬品が納められました。東海地方などでは、方形の墳丘に張り出しをつけた前方後方形の墳丘もあらわれました。弥生時代の王たちは、こうして各地で墓づくりを競い、地域色を鮮明にします。

 三世紀前半には、奈良盆地南西部に段丘長が100mにおよぶ前方後円形の墳丘墓(纏向石塚墳丘墓など)が出現。やがて三世紀中ごろになると、同地区に隔絶した大きさの箸墓古墳(280m)が成立します。三世紀前半の段階からを前方後円墳とする意見もありますが、この画期的で巨大な箸墓古墳をもって、定式化した前方後円墳の成立(古墳時代の開始)とする意見が学会の主流です。

 古墳時代の開始年代は、箸墓と同時期の古墳から出土した中国製の紀年鏡(鋳造年号が記された鏡)の年代検討や、理化学的分析から得られた暦年代を合わせて推定しています。後者は、古墳出土の土器に付着したススやコゲの分析から年代を求める放射性炭素年代測定法(AMS法)と、遺跡出土樹木の年輪の測定から年代を定める年輪年代法を組み合わせて精度を高めています。このことから三世紀中ごろの年代観はほぼ動かないとみられます。

 『魏志倭人伝』の記述から、女王卑弥呼の亡くなった年は247年ごろと考えられます。これはまさに三世紀中ごろ。箸墓古墳の築造推定年代に近いので、この古墳を卑弥呼の墓とする説が有力です。つづいて箸墓古墳と同じ形をした、やや規模の小さい前方後円墳が西日本各地につくられます。このとき、前方後円墳を共有した豪族たちの連合(ヤマト政権)が成立したと考えられるのです。

(参考文献)

若狭徹「古墳文化のプロローグ」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年