にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 前回の古墳時代編では、少し理屈っぽい学術的な話になってしまいましたが、今回からの(古墳時代その②)では、解かりやすく面白い文章を心掛けて書いてみたいと思います。

 卑弥呼について

 卑弥呼は、当時倭国とよばれた日本で、西暦二~三世紀(弥生時代のおわりごろ)をまたいで生きた人物です。時は、中国の文献に「倭国大乱」と記された戦乱の時代。日本の中の小さな国々が、宗教のちがいや物資の流通権をめぐって戦いに明け暮れていました。国を治める王たちは、戦いに疲れても刃をなかなか収められませんでした。男のプライドが許さなかったのでしょうか。そこで、皆で卑弥呼をおしたてて王とし、男たちには無いマジカルな権威によって、戦乱に終止符を打つことができたのです。

 しかし、卑弥呼にしたがう西日本の国々の東方には、卑弥狗呼という男王が治める狗奴国が立ちはだかりました。そこで卑弥呼は、中国の魏の傘下に入るための外交をおこない、この帝国をバックにつけてライバルを凌駕しようとしました。このため、卑弥呼と彼女が都を置いた邪馬台国の名は、中国の歴史書魏志倭人伝」に書き残されたのです。

 卑弥呼は247年ごろに亡くなったようですが、『倭人伝』には彼女のために「径百余歩もの墓が盛大に築かれた」と記されています。その墓が、古墳時代の幕開けを告げる最初の前方後円墳ではないかと、多くの考古学者は考えているのです。卑弥呼こそ、古墳時代を開いた偉大な人物かもしれません。

 卑弥呼の世紀のあと、大きな前方後円墳岩手県から鹿児島県にいたる広い範囲に造られる時代が到来しました。この時代を古墳時代とよびます。およそ三世紀中ごろから六世紀末ごろまでのあいだに、5000基を超える前方後円墳が列島中に築造されました。日本の国土の広さから考えれば、古墳時代は特異な大土木工事の時代だったのです。

 しかし、古墳時代の人々はお墓だけを造っていたわけではありません。さまざまな手工業をおこし、効率的な農業経営にも苦心していました。東アジアの国々とダイナミックに交流し、ときには軍隊まで送り込む一方で、自然災害におびえて神々に祈っている側面もあったのです。

 こうしたなかで、巨大な前方後円墳が社会のシンボルとして造りつづけられたのは、それなりのわけがあったからに相違ありません。それはどんな理由だったのでしょうか。奈良盆地に巨大な平城京を営み、きらびやかな寺院が軒を競い、役人たちが国の政治にいそしんだ奈良時代の前に、350年もの時を刻んだ古墳時代。その実像について、解りやすく書いてみたいと思います。

(参考文献)

若狭徹「はじまりは卑弥呼から」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年