にわか考古学ファンの独り言(弥生時代その②)

 弥生から古墳へ

 漢の皇帝から授かった金印「倭の奴国の王」

 紀元前1世紀ごろの列島の様子を、中国の歴史書「『漢書』地理志」は、こう書いています。「夫れ楽浪海中に倭人あり。分れて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ」これはどういうことかというと、「倭は百余国が分立し、なかには漢に朝貢する国もあった」ということです。つまり、そのころの列島には「クニ」と言われるほどの政治的なまとまりをもった集団が100以上もあり、それぞれの地域で自治を行っていた、ということになります。

 時代は下り、各地方では戦いが繰り広げられ、統合が進んでいきます。また、列島内で覇権争いをするだけでなく、大陸との関係から自らの地位を確保しようする王も出現します。「『後漢書東夷伝」にはこんな記録が残されていました。「建武中原二年(紀元57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。(中略)光武、賜ふに印綬を以す」倭の奴国の王が後漢朝貢し、後漢の王である光武帝から、倭国の王だと認められた印を授かったと書かれています。有名な金印は、こうして列島にもたらされました。

 ところで、この印鑑を授かった奴国の中心地ではないかと言われているのが、福岡県の須玖岡本遺跡です。金印を授かったとされる王の数代前の王の棺の中には、中国鏡30数枚、武器型青銅器(銅矛、銅剣、銅戈)が10振以上、ガラス壁、ガラス勾玉、ガラス管玉など、目が眩むほどの副葬品があったと言います。つまり、金印を授かる前から奴国は強大な勢力を持ち、大陸と交流していたことがこの副葬品を見るだけでもわかります。

 須玖岡本遺跡にある王が眠る場所から北西一帯は、王ほどでないにしろ、数点の副葬品とともに30人以上が眠っていると推定される土壙墓群が見つかりました。この地は2mほど土が盛り上げられていて、「墳丘墓」だったこともわかっています。ここに埋葬されたのは、王の次に力を持った人々で、王族たちが眠る場所なのだと言われています。そしてもうひとつ、王と王族が眠る場所の南から南東に広がる場所に「甕棺墓群」がありました。そこから副葬品は見つかっていませんが、200名を超える人びとが眠る集団墓だったのです。そこには奴国王を支えた一般の人々が埋葬されたと考えられています。このように墓だけ見ても、須玖岡本集団の中には社会的な階層があることがわかります。墓というのは、如実にその社会や集団を映します。身分によって副葬品の違いはもちろん、埋葬される場所や墓の形も変わるのです。

 墳丘墓から前方後円墳

 地方や時代などによって違いはありますが、大きな特徴として弥生時代には、特別なひとり、つまりその集団を支配したたったひとりのために、多くの人々が時間と労力をつぎ込んで作り上げる、特別な墓作りが始まったということが挙げられます。これが「墳丘墓」であり、その先の「前方後円墳」へと続く源流となるものです。

 卑弥呼が眠る墓だとも言われる奈良県箸墓古墳は、最古の前方後円墳です。この墓は、卑弥呼が生きている時から作られ始めたと考えられています。いったい卑弥呼はどんな気持ちで、自分の墓の築造を眺めていたのでしょうか。そしてその後、古墳時代に続々と作られていく巨大古墳に埋葬される権力者たちは、何を思ってそれらを作らせたのでしょうか。

 水田稲作を基礎に作り上げられた弥生時代の社会は、縄文時代とはまったく違う社会秩序を作り出しました。争いや身分の差、持てる者と持たざる者という貧富の差がはっきり生まれたのがこの時代です。こうして農耕社会がもたらした強大なパワーに飲み込まれ、やがて列島に原始的な国家が誕生したのです。

 このブログは今回をもって終了させていただきます。ブログにアクセスしていただいた方には感謝申し上げます。また機会があれば書いてみたいと思います。

(参考文献)

譽田亜紀子「弥生から古墳へ」『知られざる弥生ライフ』誠文堂新光社2019年