にわか考古学ファンの独り言(弥生時代その②)

 邪馬台国について

 最近、吉野ケ里遺跡の石棺が話題になっているので、邪馬台国について書いてみようと思います。

 邪馬台国卑弥呼は、三世紀の中国の歴史書三国志』の「魏志東夷伝倭人条(通称・魏志倭人伝))」に出てくる国と女王の名前です。三世紀の前半、日本列島にあった国々の多くが女王卑弥呼に属し、その一つの邪馬台国に女王の都が置かれていたと記されています。邪馬台国に至る道筋には対馬・一支・末盧・伊都・奴・不弥・投馬の各国があり、それぞれの距離(旅程)と方角とが記述されていますが、記述をそのまま受け入れると邪馬台国の位置は九州の南方海上になってしまいます。距離か方向のいずれかを誤りと仮定して邪馬台国の位置が論じられ、「九州説」「畿内説」をはじめとするさまざまな説が出てきていますが、それらは完全に文献史学の仕事で、考古学とは本来別の作業です。

 「魏志倭人伝」の記述が事実だとすれば、邪馬台国卑弥呼が存在した物的な痕跡が、列島のどこかに残されているはずで、それを特定するのは考古学の仕事になります。邪馬台国の位置は、卑弥呼の居館・墓といった不動産的証拠からさぐらなければなりません。ただし、発掘された居館を卑弥呼のものと同定するのは至難であり、卑弥呼の墓が都の邪馬台国につくられたという確証もありません。また、卑弥呼が中国の王朝から授かったと記されている、「親魏倭王」の金印や鏡のような動産的資料は動かすことは可能ですから、邪馬台国の位置の特定作業には使えません。

 このように、考古学から邪馬台国の位置を100パーセント確実に特定するのは、おそらく不可能でしょう。しかし、だからといって邪馬台国を探求する考古学の歩みを止めるわけにはいきません。近年の調査の進展や年代決定作業の精密化によって、邪馬台国卑弥呼が存在したとされる三世紀前半の集落や人口の分布、物流や墳墓の実態などが、ずいぶんと明らかになってきました。前方後円形・前方後方形の墳丘墓が現れ、奈良盆地の纏向を中核拠点とした広域のムラどうしのネットワークが生み出された段階が、ちょうど三世紀前半にあたります。

 また、卑弥呼が亡くなり、「径百歩」(約150メートル)の墓が築かれたとされる紀元後250年前後は、最初の倭王の墓と奈良県桜井市の箸墓を筆頭に、各地で大型前方後円墳の造営が始まる時期であります。さらに、邪馬台国を語る際によく出てくる北部九州勢力の近畿への大規模な東進説や北部九州対近畿・瀬戸内の対立説は、考古資料からはその跡をうかがうことは困難であります。

 決定的な証拠は出てこないでしょうが、このような具体的なデータを積み重ね、より矛盾の少ない解釈を導くことによって、邪馬台国の位置をある程度絞り込める日はくるだろうと思われます。しかし私見ですが、邪馬台国の位置が幻のままのほうが、ロマンがあって面白いと思います。

(参考文献)

松木武彦「邪馬台国の考古学」『列島創世記』小学館2007年