にわか考古学ファンの独り言(弥生時代その②)

 列島に異なる文化が存在した時代

 縄文時代晩期、東北地方で遮光器土器が盛んに作られていたころ、北部九州では、渡来人ともともとその地に暮らしていた縄文人によって、水田稲作を暮らしの中心に据えた弥生文化がはじまりました。つまり、南北に長い日本列島の中で、異なる文化が同時に存在していたのです。ただ弥生文化が始まったと言っても、一気に水田稲作が広がったわけではありません。数百年かけてじわじわと列島内に広がっていったのです。

 では、西日本に比べて水田稲作の開始が遅れた東日本の人は、どうやって暮らしていたのでしょうか。東日本では、畑作農耕の割合は格段に増えたものの、縄文時代から続く暮らしを継続していたと考えられています。そのため、東日本の弥生土器には、西日本の弥生土器には見られない縄文が施されているものが多いのです。米作りが始まり、新しいスタイルの土器が使われるようになっても、土器に縄文を施すことに並々ならぬ執着があったように思える東日本の縄文人。コメの美味しさにやられてしまっても、縄文時代の心は忘れないということなのでしょうか。

 縄文時代の晩期、東北地方の亀ヶ岡文化圏を中心に遮光器土偶が盛んに作られていた頃、九州の北部では水田稲作を暮らしの中心に据えた弥生文化がすでに始まっていました。南北に長い日本列島の中で、異なる文化が同時に存在していたのです。そもそも大陸からの人の交流は弥生時代に始まったことではありません。それ以前にも人の行き来はありましたが、朝鮮半島南部で水田稲作をしていた人々が新天地を求めて移り住んだのがこの時期だったのです。

 一例として、九州北部、福岡県早良平野にある有田七田前遺跡では、室見川の上・中流域に縄文的な生活で暮らす人々(縄文人)がいて、その下流域に大陸から渡ってきた人々が水田稲作をしながら暮らしていました。水田稲作をする人々と伝統的な暮らしをする人々は、住み分けをしながらもお互いの存在が気になっていたと思われます。両者は少しずつ距離を縮め、ゆっくりと意思疎通をはかります。そうして新しい文化を受け入れていったように思います。もしかしたら、大陸の人々は米を炊いて縄文人に食べさせたかもしれません。渡された米を縄文人はおそるおそる口に入れ、噛みしめるほどに広がる旨味に衝撃を受けたと思われます。あくまでも想像ですが、その味を知った縄文人は、今までに味わったことのない米の美味しさの虜になったかもしれません。もしかすると、私たちが思う以上に、縄文人たちは積極的に水田稲作という新しい文化を取り入れたのかもしれません。

 弥生文化の始まりは、それまでの縄文時代の暮らしの上に水田稲作という社会システムが重なり、それがグラデーションのようにじわじわと広がりながら作り上げられていったと思われます。

(参考文献)

譽田亜紀子「列島に異なる文化が存在した時代」「米の美味しさに激震走る!」

     『知られざる弥生ライフ』誠文堂新光社2019年