にわか考古学ファンの独り言(縄文時代その②)

 縄文から弥生へ

 縄文人は、早い時期から栽培植物を利用していながら、日本列島が畑作に不適な自然条件ということもあって、列島の環境の多様性を最大限に利用する獲得経済の段階にとどまっていました。そうした縄文時代の獲得経済を変革する技術革新が大陸からもたらされます。水田稲作とやや遅れて金属器です。とりわけ水田稲作は、畦畔や灌漑水路、堰をもち、木製農耕具や石製収獲具をともなう、高度で集約的な農耕でした。 

 さて、朝鮮半島水田稲作が開始されたのは、紀元前1000年前後と考えられています。この時期の中国は、殷から周へと政権が交代する時代で、こうした戦乱を避け、あるいは難民となった山東半島やその周辺の集団が、朝鮮半島水田稲作技術をもたらしました。そのことは結果として、朝鮮半島での緊張を生み、こんどは朝鮮半島南部の集団が日本列島に渡来する契機となり、列島に完備した水田稲作技術と道具をもたらすことになりました。

 水田稲作ほど日本列島の環境に適した農耕はないことから、その技術の導入は、豊かな自然の営みを享受していた縄文人に、農耕という新しい経済生活へと踏みきらせることになったのです。しかも、すでに四季の食料獲得の方法を熟知し、各地の環境にあわせた植物栽培の知識と経験をもっていた縄文人は、水田稲作技術を導入するに際しても、従来の縄文地域文化を否定するのではなく、その伝統の上に、あらたな稲作文化を複合していきました。

 そして、それは日本列島における大きな歴史の転換点となったのです。北海道、本州、四国、九州の四つの島とその付属島、それから南西諸島からなる日本列島は、それぞれの地域の環境に応じた多様な地域文化を育みながら、独自の縄文文化を発展させました。しかし、もともと亜熱帯の植物であるイネが生育するには、北海道の気候はきびしすぎますし、灌漑に適する地形条件のない隆起サンゴ礁などからなる南西諸島では、水田を開く条件がありません。そのために、水田稲作を基盤とした弥生時代が開始されると、北海道と南西諸島は、縄文時代以来の生業や生活を改良し、独自の道を歩むことになりました。前者を続縄文文化、後者を後期貝塚文化とよび、それぞれ後のアイヌ文化や琉球王国の礎となります。

 一方、旧石器時代も含めると、約4万年にもおよんだ獲得経済の時代は、互恵と平等主義につらぬかれた社会でした。それがひとたび水田稲作を基盤とする生産経済に移行すると、それが最初から高度で集約的であっただけに、それを指揮・監督する首長を必要とし、その首長と農民層という階級分化の進行とともに、土地と水をめぐっての争いが首長の権力の強化と政治的に統合した社会を生み出し、1000年前後という短期間に、巨大な前方後円墳を造営するような古墳時代へと突き進んでいくことになるのです。

 縄文時代までは、主に人間と自然との間にあった対立関係が、弥生時代には、人間と人間との新たな対立関係が生じ、それがやがて国家という機構をつくりだすという、そうした大きな歴史の転換点に、日本列島に居住する人びとは立たされることになったのです。

(参考文献)

勅使河原 彰「縄文から弥生へ」『縄文時代ガイドブック』新泉社2013年