にわか考古学ファンの独り言(弥生時代その②)

 弥生時代の外交

 本格的な大陸との付き合いは弥生時代から始まっており、卑弥呼もそのかじ取りをした人のひとりといえます。外交の相手は3世紀の中国、三国時代の王朝のひとつ「魏」でした。魏は、卑弥呼も登場する『「魏書」東夷伝倭人条』(略称・魏志倭人伝)を生み出した国です。

 卑弥呼倭国を束ねたあと、最初は漢(公孫氏、帯方郡)、そして魏王朝と外交をはじめました。その際、生口(身分が一番低い)と呼ばれる人々や珍しい品々を贈り物として進呈したと魏志倭人伝には書かれています。外交といっても、明らかに魏王朝のほうが立場は強く、言うなれば「配下に下る」という感じだったようです。それでも卑弥呼は、魏の国から「親魏倭王」という金印や銅鏡を100枚も下暘されています。これは魏が後ろ盾になったという証で、当時としては破格の扱いとも言えます。このように、卑弥呼以前から弥生時代には、「クニとして中国とどのような関係を作るのか」ということに重きが置かれる国際交流が行われたのです。

 鉄器と弥生人

 卑弥呼の時代から少し遡り、大陸との政治的な付き合いが始まるまでの国際交流のようすを見てみると、民間レベルでの交流はもっと実用的なものだったようです。弥生人たちは、青銅器や鉄器を作る技術や素材を求めて、朝鮮半島南部の人々と交流していた痕跡があります。紀元前4世紀、日本最古の鉄器は朝鮮半島を経由して、中国大陸で作られた鉄器の斧などが持ち込まれました。鉄器は大変な貴重品で、刃こぼれしたくらいでは廃棄せず、砥石で砥いで小型の道具に再利用していたほどでした。

 さらに前3世紀前後からは、朝鮮半島南部で九州北部の弥生土器が見つかるようになります。その時期は、鉄器が列島で見つかり始める時期と一致するとも言われています。列島で作り始める前に完成品を輸入し、壊れても大事に再利用していたけれども、「こんなに素晴らしいものなんだったら、俺たち自身で海を渡って手に入れよう」と思うのは、現代人の感覚と何ら変わりはないでしょう。稲作技術を携えて朝鮮半島南部から人が渡ってきたように、弥生人が鉄を求め、またさまざまな文化的交流を求めて船で行き来していたのは想像に難くありません。こうして弥生時代の前半は、民間レベルで朝鮮半島南部と交流し深い関係を築いていったと思われます。

(参考文献)

譽田亜紀子「大陸とのおつき合い」「鉄器に魅了された弥生人

     『知られざる弥生ライフ』誠文堂新光社2019年