にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 渡来文化(古代の韓流ブーム)

 渡来文化には、技術のほかに思想や制度など無形のものがありましたが、モノを対象とする考古学ではなかなか実証できません。しかし、その表現手段である文字資料の存在から間接的に類推することは可能です。代表例は、埼玉県埼玉稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳出土の刀剣に刻まれた文字で、大王に奉仕した豪族の家系や職名が表示されています。また、中国の歴史書には、五世紀に倭の五王が宋と文書外交をおこなったことが記されていますが、こうした文字の運用方法を教えたのも渡来人にほかなりませんでした。渡来系氏族は以後王権において重用され、外交や国家システム形成の媒介者となります。

 このころ登場した生活に密着する渡来文物に「竈」があります。それまでの火所はずっと炉でしたが、五世紀には伝来したばかりの竈に首座を譲ります。焼物性の移動式竈と、住居の壁際に粘土でつくり付けられた固定式竈が出現し、瞬く間に列島中に普及したのです。この厨房具は効率が良く、使い勝手が良かったのでしょう。竈で用いられる蒸器(甑)も普及し、餅米をはじめとした蒸し料理が食卓をにぎわせるようになったことを教えます。また蒸し米を乾燥させ干飯(糒)を保存携行食として多量に作ったとする説もあります。厨房施設及び調理法という庶民の生活レベルにまで、外来文化が浸透したことは、古墳時代の大きな特色です。最大の韓流ブームは、このときまで遡るのです。

 渡来文化のなかでも注目されるもののひとつが馬の生産です。三世紀に書かれた『魏志倭人伝』には「倭に牛馬なし」とされており、馬具の出土開始の時期から見ても、馬は古墳時代前期末から中期に日本にもたらされたと考えられます。倭は四世紀後半から朝鮮半島で軍事行動をおこないますが、そのときに馬の効用を知ったのでしょう。華麗な馬具を飾った駿馬は、王たちの憧れでもありました。

 ところで馬は単体で存在したのではありません。馬の生産は、馬と、馬を飼育調教する技術者、生産・出荷管理システムとその管理者、広大な牧、馬の生育に必要な大量の塩の調達、馬具生産システム(木工・金工・統治・皮革加工)を組み合わせた総合産業でした。牧とみられる遺跡からは渡来系遺物が出土し、生産開始には渡来人の関与が明らかです。

 馬は、豪族の権威の象徴として用いられるとともに、軍事用・農耕用・荷役用・情報伝達用に広く運用されました。馬の利用で、人力から畜力へとエネルギー利用の幅が大きく広がったのであり、さながら今日の自動車産業の開始に匹敵します。古代馬の生産地は、畿内では大阪平野が知られますが、広大な土地が必要なため東国の伊那谷や上毛野での生産にシフトし、のちの東山道ルートで畿内にもたらされたと考えられます。

 なお渡来人は、これまで西日本中心に居住したとみられてきましたが、近年では上毛野を中心とした東国でも、墓や土器、馬関連の遺物など渡来人の足跡が発見されています。

(参考文献)

若狭徹「古代にもあった韓流ブーム」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年