にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 前方後円墳の実像

 こんもりした丘に木々が生い茂った姿、あるいは頂上に神社の社殿を乗せた姿、これが現在の古墳の一般的な外観です。多くの人々は郷土の風景に馴染んだこのようなあり方が、古墳の本来の姿だと捉えていることでしょう。

 しかし、考古学者が古墳の発掘調査で表土を取り除くと、一部は崩れているものの、斜面全体を覆った貼り石(葺石)があらわれるのです。石を貼った斜面は二~三段に築かれており、その間には平坦なテラスがあって、赤茶色の円筒埴輪が一列に並んでいます。

 白く照り輝く石の山、一文字に貫く赤い埴輪の列、古墳の周囲に堂々と巡らされた広大な濠。このようなビジュアルこそが築造時の古墳の姿なのです。まさに日本のピラミッド。古墳文化の中核となったヤマト地域、西日本一帯、東日本の東海地域や上毛野地域などでは、こうして飾り立てられた姿が、古墳の基本的な仕様として共有されていました。

 もちろん、その他の地域にも大きな前方後円墳がありますが、いままで述べたような過剰な飾り(葺石や埴輪)を完備した事例はそう多くありません。けれどもそうした地域にも、ときにはフル装備した画期的な古墳が造られる場合があります。千葉県の内裏塚古墳(墳丘長144mや山梨県の甲斐銚子塚古墳(169m)、宮崎県の女狭穂塚古墳(180m)など、それぞれの地で最大の前方後円墳がそうであり、このときヤマト王権ときわめて強い関係を結んだ首長が出現したことがわかります。

 こうした派手で象徴的な古墳の姿は、ヤマト王権と連合する首長にとって、あるべき理想の墓の姿としてイメージされたのでしょう。たとえ墳丘長が同じでも、膨大な葺石や数千本もの埴輪、広大な濠を装備するか否かで、そこに投入された経済力・動員力には相当な差が生じます。古墳から地域力を押し計る研究では、それらを考慮することが必要です。

 ところで古墳の立地は、丘陵の最高所や大地の突端、扇状地の裾など、遠くからよくみえる地点が選ばれます。石を貼った外観はひときわ目立ったことでしょう。交通(陸上交通・水上交通)の要衝に造られることも多く、首相の配下の人びとや他の集団にアピールする意図が読み取れます。また、新規に開発する目的地に造られる場合もあります。築造地に人びとや物資を結集させ、開発推進のシンボルとしたのでしょう。古墳とは単なる墓にとどまらず、地域や共同体にとっても重要な記念物だったのです。その存在によって、人びとの心をひとつにまとめ、社会の秩序を維持するシステムが働いたと考えてよいでしょう。

 ヤマト地域を中心として同じ設計図を引いた前方後円墳が各地に広がっています。それを共有した首長の連合体がヤマト政権であり、そのネットワークを伝って情報がもたらされ、鉄器の原料となる鉄素材や様々な威信財が各地の流通しました。その範囲こそが、外国からみた「倭」の領域だったと考えられます。

(参考文献)

若狭徹「前方後円墳の実像」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年