にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 居館と水利について

 古墳時代に先立つ弥生時代には、戦乱に備えて深い溝を巡らした環濠集落が築かれ、地域の中核となっていました。西日本の環濠集落のなかには、ムラ人の家とともに首長の住まいや祭殿とみられる大型建物があり、やぐら、倉、工房などが設けられた例もみられます。

 古墳時代になると環濠集落は消滅し、首長の住まいは集落から独立します。古墳前期の奈良県纏向遺跡では大型建物が並んで検出され、首長居館が早くに成立したことが明らかとなりました。大阪府法円坂遺跡などでは、規則的に並んだ倉庫群(中期)がみつかっており、穀物や財物を納める一大倉庫群が設置されていたことを示しています。

  群馬県三ツ寺I遺跡(中期)は、山麓水源地に進出した有力首長の居館です。石を貼り、各所に張り出しを設けた90メートル四方の館が、広い濠で囲まれています。柵で囲われた内部空間には大型建物、井戸、水道橋(掛樋)で水を流し込んだ石敷きの導水祭祀場、従者の家、工房があります。湧水をせき止めた濠は貯水池となっており、堤防・堰の築造をともなう高い治水技術が投じられています。その背景に、大規模な灌漑事業・農業水利事業の実施が推測されますが、これは新たな渡来系技術の獲得によって実現したものです。水利事業は、湧水の掌握、川の制御、水路の開削、貯水池の築造、掛樋の構築、小区画水田による用水運用が一連となっており、これに導水祭祀というソフトウェアがセットになっています。居館は、こうした地域の農業経営並びに地域祭祀の拠点として機能したのです。

 ところで、水に関わる祭祀施設は、近年ヤマト地域を中心に発見例が増加しています。三重県城之越遺跡では水源を加工し、石を貼って清浄にしつらえた祭祀施設がみつかりました。奈良県南郷大東遺跡では、谷間に小さな池を造り、そこから上澄みの水を桶で導いて槽に受け、祭祀をおこなう施設が検出されました。奈良県南紀寺遺跡から井泉の水を導いた玉石敷きの広大な空間がみつかっています。

 最近出土例が増えた、前方後円墳の造出に置かれた家形埴輪群も、首長居館を考える材料になります。奈良県赤土山古墳の袖には石張りの区画が設けられ、平地建物・高床建物・高床倉庫を象った埴輪が並んでいます。区画部には張り出しや谷も表現されていて、三つ寺I遺跡のあり方をほうふつさせます。谷底には水をまつる建物も造形され、居館の実際がよく反映されています。

 こうしてみると、外来の新技術によって水利と農業を刷新し、水を納めまつることが、倭の大王と首長らに共有された先進の地域経営スタイルであったと推定されるのです。水利事業をすすめる豪族たちが共有したこうした祭式は、前方後円墳での祭式と同様に、ヤマト政権のメンバーシップの証だったと考えられます。

(参考文献)

若狭徹「居館と水利」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年