にわか考古学ファンの独り言(古墳時代その②)

 小区画水田について

 古墳時代における生業の基本は農耕でしたが、田や畑の跡を発見するのはなかなか困難です。竪穴建物などは地面を深く掘り込むためその痕跡が残りますが、農地は日々耕され、一旦放棄されるや急速に風化してしまうからです。しかし、発掘調査の激増で低地部の調査が進むと、火山灰や洪水に埋もれた農業遺跡の発見例が増加してきました。

 水田

 古墳時代の水田は、今日と同様、アゼで区画し、水をたたえるように設計されています。度重なる噴火により各時期の水田が重なって見つかった群馬県同道遺跡の事例をみると、古墳前期の田は一辺が10メートル内外の大区画で不定形な形状でしたが、中期になると一枚が二畳ほどの小区画の水田が出現し、これを規則的に見渡す限り連ねていく水田景観が生まれました。そして平安時代には再び大区画に戻っていくのです。

 小区画水田は、古墳時代に広くみられることから、効率的な農法として伝来したものと推定されます。いわば平野の棚田であり、小区画を連接することで土地の起伏に沿ったきめ細かい用水の運用を可能としたのです。火山灰でパックされた群馬県下の事例でみると、太いアゼで囲われた大きなブロックが基本の経営単位であり、その中を傾斜に即して小さく区割りしています。しかも、小区画のアゼは毎年壊し、田面に草の鋤き込み(刈敷)をおこなうことで養分を補給した後、再び配水を確認しながらつくり直されることがわかっています。絶妙に掛け流された用水は、大ブロックの末端で集められて次のブロックに送られます。

 当時の水田では、規則的に並んだ稲株の跡がみつかります。このため田植えが行われた可能性が高く、苗の生育は集落の特別な畑(陸苗代)でおこなわれたと考えられます。またこのころから鉄鎌が普及するため、稲刈りは鉄鎌でおこなわれたとみられます。収穫法には穂首刈と根刈がありますが、古墳時代には藁打ち用の気槌が多く出土するため稲藁の利用が進んだと考えられられ、根刈が普及した可能性が指摘できます。

 

 火山灰に埋もれた畑では、一定幅で溝を切り、畝立てした今日の畑と同じような景観がみられます。陸稲やムギ、栗などの雑穀の栽培とともに、桑・麻など紡織にかかわる作物の栽培もおこなわれたことが科学的分析からわかります。その他の畑作物はなかなか明らかになりませんが、万葉集などにみるように、芋・采・豆など多様な作物が栽培されたと推定されます。このように、水田の営めない乾燥地も、広大な畑作地として利用されていたのです。

 家畜・家禽

 弥生時代以降、豚の存在が指摘されており、『日本書紀』には猪飼集団がいたことが書かれています。古墳後期には馬鍬・唐鋤の出土例が増え、家畜の農耕利用がはじまったと考えられます。また、牛形埴輪が稀にみられることから、牛が王に占有されていた可能性が指摘できます。奈良時代の貴族は貴重な乳製品を食べていましたが、それが古墳時代に遡る可能性も否定できません。家禽としては鶏が知られ、埴輪にも造形されています。

(参考文献)

若狭徹「広がる小区画水田」『古墳時代ガイドブック』新泉社2013年